「徳川家康公関連サイトNo.1!」を目指すブログです。敬愛する家康公や徳川家臣団に関する史跡巡りや解説・考察などメインに、関東のマイナーな歴史スポット等も紹介できたらと思います。
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東急株主限定企画『懐かしの東急8000系ツアー』に行ってきました
東急株式会社傘下の伊豆急行が開催する、株主限定企画『懐かしの東急8000系ツアー』に行ってきました。 伊豆急行線で活躍中の8000系車両に、東急線で走っていた時代のラッピングを施した特別仕様の電車に乗車して、伊豆急行線の伊豆高原駅〜伊豆急下田駅間を往復するという企画です。
本證寺(愛知県安城市)|三河一向一揆以前に本多正信が通っていた寺
本證寺は、愛知県安城市にある浄土真宗・真宗大谷派のお寺です。 徳川家康公の無二の参謀・本多正信は若かりし頃、この本證寺に通っていました。 今回は、そんな正信が若い頃に通っていた寺院・本證寺をご紹介いたします。
小川的場丘城跡(愛知県安城市)|家康公の名参謀・本多正信の出生地?
本多佐渡守正信ほんださどのかみまさのぶとは、徳川家康公に天下を取らせた名参謀であり、その信頼の厚さは家康公に「友」と呼ばれるほどでした。 家康公と正信の仲は、周囲からも「水魚の交わり」と評されたほど、家康公に信頼されていた謀臣です。
堀秀政陣跡(愛知県長久手市)|「桧ヶ根の戦い」で秀政が布陣した場所
堀秀政陣跡の記念碑は、愛知県長久手市の桧ヶ根公園内にあります。 秀政は「小牧・長久手の戦い」における「桧ヶ根の戦い」で、徳川方の榊原康政勢や大須賀康高勢らを破りました。 ですがその直後、色金山に布陣していた徳川家康公が御旗山に移動して金扇の馬印を立てると、それを見て戦況の不利を悟り撤退しました。
御旗山(愛知県長久手市)|「桧ヶ根の戦い」後に徳川家康公が布陣した場所
御旗山は「小牧・長久手の戦い」における「桧ヶ根の戦い」での徳川方敗北の報せを受けた徳川家康公が、色金山から陣を移した場所です。 御旗山は「桧ヶ根の戦い」で勝利した直後の羽柴方・堀秀政の陣からすぐ近くにあり、御旗山に家康公が立てた金扇の馬印を見た秀政は形勢の不利を悟り、分断された池田恒興・元助勢と森長可勢からの援軍要請を無視して撤退しました。
長久手城跡(愛知県長久手市)|「岩崎城の戦い」の最中に焼き討ちにされた城
長久手城は、戦国時代後期に長久手村一帯を領有していた加藤忠景の居城です。 忠景は天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」において、岩崎城主の丹羽氏次から岩崎城を任された弟・丹羽氏重の元で「岩崎城の戦い」に参加し、城兵もろとも討死しました。
鎧掛松・血の池公園(愛知県長久手市)|「長久手の戦い」後に槍や刀の血を洗い落とした池の跡
『血の池公園』は「長久手の戦い」後に、徳川家康公の家臣・渡辺守綱らが血のついた槍や刀を洗ったと伝わる池の跡地です。 その際、脱いだ鎧をかけた松が『鎧掛松』です。 現在『血の池』は埋め立てられて『血の池公園』となっており、池だった面影は一切ありません。
武蔵塚(愛知県長久手市)|「長久手の戦い」で討死した森長可の供養塚
『武蔵塚』は「長久手の戦い」で討死した、羽柴方の森長可ながよしの供養塚です。 長可は羽柴方として「小牧・長久手の戦い」に参戦し、天正12年(1584年)4月9日に徳川家康公率いる軍勢と激突し、現在の『長久手古戦場跡』周辺にて討死しました。 長久手古戦場エリアの史跡巡りに便利な、無料のレンタサイクルを借りられる長久手市郷土資料室からすぐ近くにあります。
勝入塚・庄九郎塚(愛知県長久手市)|「長久手の戦い」で討死した池田恒興・元助父子の供養塚
『勝入塚』は「長久手の戦い」で討死した、羽柴方の池田恒興の供養塚です。 『庄九郎塚』は同じく「長久手の戦い」で討死した、恒興の嫡男・池田元助の供養塚です。 恒興と元助は羽柴方として「小牧・長久手の戦い」に参戦し、天正12年(1584年)4月9日に徳川家康公率いる軍勢と激突し、現在の『長久手古戦場跡』周辺にて討死しました。
長久手古戦場跡(愛知県長久手市)|徳川家康公が秀吉に勝利した「小牧・長久手の戦い」の局地戦が行われた地
徳川家康公が羽柴秀吉と直接対決した合戦「小牧・長久手の戦い」。 互いににらみ合いを続けているうちに秀吉が和平工作を行い、その後の飛躍も考えると政治的には秀吉が勝利した合戦と言えます。 ですが、合戦そのものでは家康公が羽柴軍に勝利したのをご存知ですか? 「小牧・長久手の戦い」は合戦の期間が長引いた上に、交戦地点も複数あって複雑なのですが、まずは「長久手の戦い」が行われた「長久手古戦場跡」をご紹介します。
大光院新田寺(群馬県太田市)|徳川家康公が建立した新田源氏の祖・新田義重の菩提寺
大光院新田寺は、新田源氏の末裔を自称した徳川家康公が、その祖先とした新田義重の菩提を弔うために建立した寺です。 大光院に現存する吉祥門は、徳川方が「大坂の陣」にて大坂城を落城させ豊臣家を滅亡させた日に上棟されました。 そのため、縁起が良いとして家康公に『吉祥門』と名付けられました。
東照宮御遺訓は後世の創作だった!?|本当の徳川家康公御遺言とは?
今日、徳川家康公の御遺言として伝わるものに『東照宮御遺訓』があります。 これは「人の一生は重荷を負て遠き道を行くがごとし。急ぐべからず……」という出だしで有名ですね。 ですが、実は後世の創作だとする説があるのをご存知ですか? 今回は『東照宮御遺訓』と「家康公が遺した本当の御遺言」について、まとめました。 「日光東照宮や久能山東照宮、他には上野東照宮などでも境内に掲示されている『東照宮御遺訓』が偽物の訳ないだろう」とお思いの方も、ぜひ最後までご覧になってみてください。
小山御殿広場(栃木県小山市)|徳川将軍が日光東照宮社参時に宿泊した小山御殿跡
小山御殿広場は、2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光、4代将軍・徳川家綱が、徳川家康公を祀る日光東照宮に参拝へ行く際に使用していた『小山御殿』のあった地です。 小山御殿は元和2年(1622年)に、2代将軍徳川秀忠によって建てられました。 御殿とはいうものの、その実態は東西64m・南北100mに渡る敷地の内外に16ケ所の番所を設置し、周囲には2重の土塁を配し、さらにその外側を水掘りで囲むという、平城のような構造でした。
世良田山長楽寺(群馬県太田市)|家康公が庇護した徳川家と東国の禅文化発祥の地
前回の記事では、徳川家発祥の地とされる場所にある世良田東照宮をご紹介しました。 今回は、その世良田東照宮を境内に建てた長楽寺をご紹介します。 長楽寺は、徳川家康公の側近の1人・南光坊天海が住職を務めた事もありました。 元々は臨済宗の寺として承久3年(1221)に、新田義重の四男・新田義季(後世、家康公が源氏の末裔を名乗る際に徳川家の開祖とされた)が、臨済宗の開祖である栄西の高弟・栄朝を招いて開基しました。 そのため、長楽寺は東国における禅文化発祥の寺であり、常時500人もの学僧が研学修行に励んでいたと言われています。
世良田東照宮(群馬県太田市)|最初の日光東照宮社殿が現存する徳川家発祥の地
金ピカの豪華絢爛な社殿で有名な日光東照宮ですが、実は最初から今の社殿ではありませんでした。 2代将軍・徳川秀忠が家康公を祀るために建てた最初の日光東照宮は、家康公の遺言により質素な社殿でした。 その後、3代将軍・徳川家光が今の金ピカ日光東照宮に建て替えたのですが、その時に最初の社殿は移築されました。 今回は、その日光東照宮の最初の社殿が現存する、世良田東照宮をご紹介いたします。
須賀神社・小山評定之碑(栃木県小山市)|徳川家康公による小山評定が行われた場所
慶長5年9月15日(1600年10月21日)、美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)にて、徳川家康公率いる東軍と石田三成ら西軍が「関ヶ原の戦い」を行いました。 「関ヶ原の戦い」の約3ヶ月前、慶長5年7月25日(1600年9月3日)下野国しもつけのくに小山おやまに布陣していた家康公は、豊臣軍の諸将を集めて軍議を開きます。 この「小山評定おやまひょうじょう」により結束した東軍は、反転して西へ向かい進軍していきます。 今回は「小山評定」が行われた場所である須賀神社をご紹介いたします。
幕府って何?|鎌倉幕府・室町幕府・徳川幕府(江戸幕府)の違いとは?
歴史の教科書や各種歴史本から大河ドラマなどの時代劇に至るまで、とてもよく目にする「幕府」という言葉。 ですが「そもそも幕府とは何なのか?」実はよく分からない、とは思いませんか? また、日本史には3つの幕府が登場しますが、鎌倉幕府・室町幕府・徳川幕府(江戸幕府)それぞれにどういう違いがあるのでしょうか?
小山評定跡碑(栃木県小山市)|徳川家康公が「関ヶ原の戦い」前に開いた伝説の軍議とは?
小山評定跡碑は、栃木県小山市中央町1丁目1-1にある記念碑で、同地は「小山評定」が行われた地です。 日本史上最大の野戦合戦「関ヶ原の戦い」の直前に、上杉討伐軍(会津討伐軍)を反徳川勢力討伐軍に転換させた「小山評定」が行われました。 まさに、関ヶ原の戦い開戦前の見所の1つがここで行われたのだと思うと、感慨深いものがあります。
住吉神社(東京都中央区佃)|佃煮の発祥には徳川家康公が関係していた?
住吉神社は東京都中央区佃にある、徳川家康公ゆかりの神社です。 家康公と住吉神社のある佃島の村人たちとの縁は、天正年間に家康公が清和源氏ゆかりの霊廟・多田院を参拝する際に、摂津国・田蓑島の漁夫達が漁船に家康公を乗せて神崎川を渡った所から始まります。 しかし、家康公と佃村の村人たちの出会いにはもう1つの説があります。 その縁は天正10年(1582年)に起きた「本能寺の変」からの「神君伊賀越え」にさかのぼるそうです。
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