山下奉文大将・武藤章中将コンビを中心として、軍人エピソードを紹介していきます。
近代の軍人たちの様々なエピソードを紹介していきます。軍人というと何だか「いかつい」「傲慢」というイメージで見てしまう ことがありますが、彼らも、現在に生きる私たちと同じように、自分の置かれた場所と折り合いをつけて生きてきたことをお伝えできたらと思います。
こちらに書くのは本当に久しぶりです。 ブログを引っ越そうと試行錯誤してました。 今でも試行錯誤しているんですが・・・。 それでも、ようやくWordPressを使ってブログを書く環境が できつつあるかなーーーと思ったところで、 新しいブログのURLをお伝えします。 ブログ名は変わりません。 「軍人の道は一本道」 今後はこちらになります。 http://tenhouin.net/ 私にはWordPressって本当に難しく…
最近、更新がなかなかできないです・・・。 本来ならばしっかり歴史を勉強しなきゃですが・・・。 最近は、5月31日まで無料の「Photoshop CS6」にハマってます。 http://www.adobe.com/jp/joc/photoshop/photoshop/ps6beta/ (ここからダウンロードできます) それで、桜の時期にちなんで、いくつか軍関係の写真(補正)成果を 公開したいと思います。 本当に初心者でヘタなのは、何卒ご容赦くだ…
中々更新できないでおりました。 内容的にも勉強不足だなあと思い、 ついつい、横道にそれてしまうのです と、最初に言い訳をしておきます。 皆様は、今回の大河ドラマをご覧になられているでしょうか? 私は、実は「見ていません」 テレビがないからです 正直、うつ病持ちの私には、テレビがあったとしても 心が…
皆様 今年こそは本当によい一年になりますように! 正直年末年始とも、あまりよいニュースは少ないし、 これからどうなるんだろう・・・というような事案も多いのですが・・・。 そのような中で私は、私自身の「パワースポット 」に行きました。 ここです!
近藤中将率いる第130師団のことを、通称「鍾馗兵団」といいます。 「第130師団が~」という言い方はあまりしないようです。 このように、師団など、独立した作戦能力をもつ兵団には、「秘匿名」(これが通称でもあった) が与えられており、第130師団は、「鍾馗(しょうき)兵団」と呼ばれました。 鍾馗(しょうき)とは何でしょうか?
前回のエントリーでは、昭和20年初めの支那戦線状況について ざっくり説明しました。 当時の陸軍が最優先していたのは。 連合国軍の上陸をいかに阻止するかということであったと。 ところで近藤中将は、昭和18年から台湾軍参謀長をつとめ、昭和19年から、独立混成第19旅団長 をつとめており、汕頭 (現在の広東省東部)にて防衛の任務にあたっていました…
近藤新八中将の話も三回目に入れました。 (いつもは、別の話にそれて、中々書き続けるのが難しいです。でも問題意識は 薄れてはいません) 近藤中将は昭和20年4月に、第130師団長(在広東・南支那)となりますが、 その前に、当時の支那戦線の状況と、支那派遣軍の見通しがどのような ものであったかを記す必要があると思います。 私たちは、多分「支那事変」ではなく、「日中戦争」と教わり、そのように自然…
近藤新八中将を一言で表現するなら 「謹厳実直」かなあと思いました。 この人の軍歴を見ていくと・・・。 近藤中将の簡単な軍歴です
これはある昭和受難者の辞世です。 この方です。
http://news.livedoor.com/article/detail/5815501/ >27日午前0時55分ごろ、東京都千代田区の上智大のキャンパス内で、研究室などが入った建物「クルップ・ホール」地下部分の電気室から出火、電気室の一部を焼いた後、東京消防庁に消し止められた。 火災発生当初、同大では明治期の建築物として有名なクルトゥルハイム聖堂からの出火との情報もあったが、同庁は、出火場所を「クルップ・ホール」と特定した。 …
中々ブログを更新できませんでした。 資料を目の前にしても、「あーでもない、こーでもない、 わからない!」 となることが多くて、中々やろうと思っても放置状態が続いておりました。 本日は、マスコミなどで「終戦記念日」とかいわれています。 私は、山下大将や武藤中将と「おつきあい」させていただくようになってから どうしてもこの表…
http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/yomiuri-20110403-00478/1.htm このたびの災害派遣中に、陸上自衛隊旭川駐屯地から派遣されていた 50代の曹長(准陸尉に特進)が殉職なさいました。 その方のお名前などはまだ発表がないので、何とお呼びしたらよいか わかりません(本来ならば、発表してほしいと思います。殉職された 警察官もすぐお名前がわかるので)。 ご冥福をお祈り申し上げます。 …
今日は、「江戸川水閘門」(えどがわすいこうもん)に再び行ってみました。 <…
渡辺錠太郎大将は、明治28(1895)年7月に、念願の陸軍士官学校生徒となりました。 同期生で有名なのは、林銑十郎大将(のち首相にもなる)です。 林さんは、渡邉さんを初めてみたのが、陸士の試験場だということです。 林さんは旧制第四高等学校の補充科を中退しての士官学校入校でしたので、 金ボタン付きの学ラン姿で受験をしたのです。 他の受験者もそういう人が多かったようです・・・。 何と言っても…
今日も、渡邉錠太郎大将ネタです。 渡辺大将は、「文学博士」とあだ名されていました・・・。 これは褒め言葉と思いますか? 私は、むしろ「敬遠」されていたことを示すのではないかなあと思います。 この方は、とにかく「学ぶことが大好き」でした。 軍人としての俸給の何割かを、丸善への支払いに充てていたといわれ…
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