chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
油屋種吉の独り言 https://blog.goo.ne.jp/knvwxco

種吉が今と昔のお話をいろいろに語ります。

ライフスタイルブログ / 季節感のある暮らし

※ランキングに参加していません

油屋種吉
フォロー
住所
栃木県
出身
奈良県
ブログ村参加

2013/08/16

  • 女の子って、わからない。 (5)

    大ジョッキで二杯のビールは、康太をして、帰りの浅草駅の構内で、赤の他人の若い女性に、背後から、声をかけさせた。「ちょっと待ってよ。あおい、あおい。どうしたんだよ。こんなところで?」紺のスーツの上下を身に着けた女性は、振り向きざま、きついまなざしを康太に向けた。実際のところ、彼女は見かけよりうんと年老いていたらしく、振りむきざま、康太にきついまなざしを向けた。「ふうん、わたしがおたくの知り合いの女の人に似てるんだ。きっとお若いことでしょうよ。ああ、うれしいやらかなしいやら。まあ、ありがた迷惑もいいとこってとこね」彼女は、康太の目の前まで、つかつかと歩み寄った。そして細い右腕をしならせ、ピシャリと康太の左ほほを平手でたたいた。へえっと言ったきり、ふたりの様子をわきから観ているしかなかった二郎である。彼女が靴音...女の子って、わからない。(5)

  • 女の子って、わからない。 (4)

    「ほら、行こうよ。ねっ、いいでしょ」急に、相手が親指と人差し指を使って、康太の上着の袖をつまんで引っ張った。「はあ?ちょっちょっと、どこへ行くんですか」身体ばかりが大きくなった康太だが、知らないことが世間に多すぎた。ふわふわして地に足がつかない気分の康太である。あやうく、見ず知らずの人間について行きそうになってしまう。「おいおい、康太、おまえ、父ちゃんこと放っておいて、どこへ行くんだ」二郎の声が、不意にわきから飛んできた。康太にとって、その声は神さまのものに聞こえた。(あっ、父ちゃんだ)康太は相手の腕を振りほどき、逃げようとした。だが、相手の力が強い。康太のからだが、ぐいぐい引っ張られる。二郎が勇んでふたりの前に、立ちはだかったが、相手は気にとめない。「さあさあ、行こうね。いい思い、させてあげるって。あん...女の子って、わからない。(4)

  • 柳美里さん、退院おめでとうございます。

    こんにちは。退院とお聞きして、ほっとしております。お気の毒に、帰宅する間も、晴れやかな気分になることができなかったのですね。それを聞いて、とても悲しく思いました。何が、あなたを、そんなふうにさせているのでしょう。あなたの初期の作品を、いくつか読ませていただきました。あまりに生々しく描かれていて、どきどきしどおしでした。ご家族やご親戚ともども、異国の地で多大な苦労をなさってこられたのだ、と、思うばかりです。小高川のほとりを散策なさったのですね。お写真、拝見しましたよ。多少、空気に冬の名残が感じられたでしょうが、山や野の草木のやわらかないろどり、さらさら流れる川面のきらめき……。それらはきっと、あなたのこころを和ませたことでしょう。小高地区に居をかまえ、東日本大震災に遭遇された人々を、日々勇気づけてくださって...柳美里さん、退院おめでとうございます。

  • 女の子って、わからない。 (3)

    見知らぬ女が声をかけている相手が、まさか自分だとは思わない。康太はあたりを見まわし、彼女にふさわしい男のありかを目で探したが、それらしき人物は見当たらない。十メートルほど先にライトに照らし出された桜の木が二本あり、その辺りには、彼女の年に見合ったような年配者が三人ばかりいるが、みな女連れである。康太は思いきって、女に向き合った。声には出さず、右手の人差し指の先で、そっとじぶんの鼻のてっぺんを触った。女は、うんと首を振った。康太は現代っ子に似合わず、神経質な面がある。小学生の頃から友達の輪の中に入らず、ちょっと離れたところから彼らの話の内容を気にしているようなタイプだった。気が小さいだけで、ほんとうは彼らの中にとけこみたいと思っていたのかもしれない。「うふっ、可愛いのね。あんたよ。あんた。あたしが呼びかけて...女の子って、わからない。(3)

  • 柳美里さん、良かったですね。

    あごの手術をなさったそうですね。今さっき、手術後のあなたの写真を拝見して、あっと驚きました。心の底から何か熱いものがじわりと湧いてきて、たまらなくなり、こうしてコメントを差し上げている次第です。あなたの一ファンでしかない私ですが、一言、応援したくて筆をとりました。お若いのですから、身体は日に日に良くなっていかれると思います。わたしは宇都宮の近くに住んでいます。夢を持ってがんばっておられるのを、あなたのブログを通じて知っておりました。七十の坂をのぼっている私ですが、足腰の立つうちに一度あなたが経営されている本屋さんを訪ねたいと思っています。手術が終了しました。柳美里さん、良かったですね。

  • 女の子って、わからない。 (2)

    東武浅草駅で電車を下りてからもずっと、康太は落ち着きがなかった。改札を通り抜け、下りのエスカレーターに乗っている時も、上ってくるエスカレーター内の人を注意深く見つめた。まるで人込みの中に、知り合いの姿を認めようとするかのようだった。康太の挙動がおかしいのに、二郎は早くから気づいてはいた。最寄りの駅で、電車に乗った時からずっと、終始、康太はあちらこちらと視線を走らせていて、二郎と雑談に興じる気配はなかった。二郎はよほど、おい、おまえ大丈夫かくらいの声かけを、康太にしようとも思ったが、すでに十八歳である。そんな言葉を、喉元でこらえるのに、大した努力を必要としなかった。康太は康太で、父の表情から、じぶんに対する配慮を感じ取ったのか、「なんでもないからさ、おやじ。心配ありがとう。もうこれからは、受験勉強のことを考...女の子って、わからない。(2)

  • 女の子って、わからない。 (1)

    二郎親子は都内の下町暮らし。持ち家だが小さい。台所と茶の間、それに四畳半と六畳の部屋。どうにかトイレとお風呂がついている。離婚してからはむだ遣いせず、質素な生活をモットーにしてはいるが、男所帯である。ときどきは。はめをはずした。康太は四月上旬にM大学の商学部への入学が決まっていて、日々、文字どおり晴れやかな表情で過ごせるはずだった。しかし時おり、ひとみを曇らせる。そのことが、ある夕方、帰宅したばかりの父、二郎に気づかれた。いつもなら元気よく、玄関先で、お父さん、お帰りって、あいさつする康太だが、その日はどうも様子がおかしい。上がり框から奥の部屋へと廊下がつづく。小玉電球の弱い光も手伝って、康太の表情が暗くみえるのだろう。「うん?どうした、おまえ?腹でも空いてるのか。もっと明るい顔にならないのか。この大めし...女の子って、わからない。(1)

  • 女の子って、わからない。 プロローグ

    JR原宿の駅舎が、新しく建て替えられたという。このニュースを聞いたとき、日ごろ時おりふわふわ感のある二郎が、「どんなふうに建て替えられたんだろ。天皇家にゆかりのある駅だしな。あんまり現代っぽいのも考えものだ」と言って、顔をくもらせる。「へえ、めずらしい。そんなこと、お父さんが考え込まなくたって大丈夫、えらい人たちがちゃんとやってくれるさ。それよりあっちはどうしたの?」二郎のひとり息子の康太が、二郎の肩をポンポンたたきながら言った。「そりゃ、そうだな。だがな、JR京都駅がいい見本だ。あれじゃ古いみやこのイメージがぶちこわしじゃないか。あっちあっちって、まったくもう、おまえって、人の楽しみにいちいち口を出すんじゃない。朝早くから店頭にならんで買えるだけ買ってきたよ」「さすがあ、やることがすばやい。でもさ京都駅...女の子って、わからない。プロローグ

  • 巴波川・恋の舟歌 (13)

    町中の河岸からの乗船はひとめにつく。万一、人にみとがめられても言い逃れできるよう、仁吉はいやがるおよねにむりやり夜鷹のしたくをさせ、川下の葦のしげる河原に舟をしのばせた。返せるあてなどない舟一艘である。それに値するきんすは、仁吉の目をみはらせるほど多かったが、何もかも可愛いおよねのためと仁吉は銭袋のひもをゆるめた。「ちょっとばかり遠い親戚筋まで、のがれられねえ用でがす。荷もおおござんすのであいすみません」「そうかい。あんたもたかだか蕎麦屋の身でな。たくわえも大したこたあねえだろうに」船主はまなざしにぎらりと不審の念を浮かべた。「あっそうそう。これはこれは、すくねえですがたばこ銭にでも、と、仁吉は船主の着物の袖に、一握りの銭を差し入れた。「おおっ、すまねえ。よけいなことを言ってしまったな。まあ、気を付けて」...巴波川・恋の舟歌(13)

  • 巴波川・恋の舟歌 (12)

    (ふた親さまが承知なら、おらはなにもいうこたあねえ。ならず者にいたぶられ、身も心も傷ついてるおよね大切に、先々のことをかんげえていけばいいことだい)仁吉はそう腹をくくり、およねとの出立にそなえてきた。そこで降ってわくのは、どこで暮らすかということ。むろん、その場所で仁吉が張り切って仕事ができなくてはならない。幸いなことに、仁吉には、ものごころついたころからの夢があった。将軍さまのおられる江戸で、ひと旗揚げたい。そう考えていた。長かった戦乱の世が徳川の家康公のおかげさま、今は元禄の世まっさかり。(庶民からお武家様まで、うめえものを食したいと心底思っていらっしゃる)仁吉は人づてに聞いたり、時おり手にする瓦版を観ては、期待に胸をふくらませていた。ひとりして江戸に向かおうと思っていた矢先のこと、神か仏のご加護があ...巴波川・恋の舟歌(12)

  • 巴波川・恋の舟歌 (11)

    およねは、もはや呉服屋のお嬢さまといった身支度ではない。着物は茶色の木綿、髪に飾り物などない。この姿のまますぐ、ちまたになじめそうである。身内の者の見送りは、巴波川の念仏橋のたもと辺りまでだった。「それでは、お嬢さま、今はこれにてしばしのお別れでございます」手代の声がふるえて、言葉にならない。およねは、かぶりを大きく振って、彼の気持ちに応えようとしたが、一瞬めまいを感じてしまい、思うように身体が動かない。このまま倒れでもしたら、とうとうと流れる雪解け水の中に、ドボンとわが身を落としてしまわないとも限らない。(誰でもいい、助けて)祈るような思いで、そばに立っていた桜の老木の幹に、右手をのばした。バサリと音がして、およねが左わき腹に大事にかかえこんでいた、大きめのふろしき包みが地面に落ちた。(いっそ、このまま...巴波川・恋の舟歌(11)

  • 巴波川・恋の舟歌 (10)

    飲食物の出入りがとだえると、人とのかかわり合いがまったくなくなり、およねの不安がつのった。行燈の灯りがとどかぬ物影から、今にもぬっともののけが出そうな気がする。いまだに子ども子どもしているおよねは恐怖のあまり、気を失いそうになってしまう。(あたしにもぎょうさん、落ち度があるのはわかってる。それにしても、こんなひどい仕打ちをあたしにするなんて……。とてもとてもあの大好きなおとっつあんひとりの仕業とはとても思えない。おっかさんだってあたしを大事に思うんなら、もっともっと反対してくれたら良かったんとちゃうやろか……。あっそうだ。ねえちゃんだ。今ごろどうしているんやろ?)父親の言うことには絶対に従うべし。およねは時代を恨んだ。一日、二日と時間が経っても、今がお昼なんだか、夜なんだか、わからない。食事の世話はうちに...巴波川・恋の舟歌(10)

  • 巴波川・恋の舟歌 (9)

    それまで抱いていた不安が、いっぺんに吹き飛んでしまったとばかりに、およねは喜び勇んで裏庭に足を踏み入れたが、おようの姿が見あたらない。「ねえ、おっかさん、おっかさんたら。どこにいるの」およねは声をひそめて言った。春らしい気配が庭のあちこちに残っていたのは太陽が沈んでからしばらくの間。この時刻になると、冬の名残りのひんやりした空気がいずこからともなく漂いだしてきて、およねの足もとを冷やした。およねがぶるっと体をふるわせる。(どうしたのかしら?今の今までおっかさんがいたはずなのに……、寒いわ)息がつまりそうに思い、誰か来てと大声で叫び出したくなるのをこらえた。月の光に照らされただけだった石燈籠がふと、昼間の装いを取り戻した。淡い光を放つ提灯がひとつあらわれて、ゆらゆら揺れた。それはまるでおぼろな夜気にさそわれ...巴波川・恋の舟歌(9)

  • 巴波川・恋の舟歌 (8)

    夜風がおよねの身に染みる。からだの傷よりこころが、ひどくうずく。「ここいらでよかんべ。おらも、あんましかかわりあいになりたくねえし」与吉が声をおしころして言い、背中のおよねの体を、やんわり地面におろすなり、「あい、ほんま、おおきにどすえ」およねが上方なまりで返した。「初めはたいへんだんべけどな、時がたってしまえば、収まるところに収まる」若いわりに、与吉は老たけていた。「ええ……、いずれ、また逢ってお礼をしますから」およねの震える声に、熱心に耳を貸さない。「そんじゃな」と与吉は言い、川べりの闇をさがしさがし家路についた。ふいにおよねにとびきりの孤独が襲った。深い後悔の念が、およねのこころをいっぱいにした。少しでも大人びているところを、好きな仁吉さんに見てもらいたい。そう願うあまりとはいえ、事情があって大川の...巴波川・恋の舟歌(8)

  • 巴波川・恋の舟歌 (7)

    下腹のあたりがひりひりと痛んだ。しかし、それほどひどくはない。およねは、それがわかった。うれしくて、自然と涙がでた。(いま少し長く、自分のからだの上に男がいたら、たぶん……)そう思うと、およねは安らかではいられなくなる。小屋から走り出て、すぐにでも大川に身を投げてしまいそうだった。相撲取りのような男がふたたび、小屋に入って来ると、およねはすぐさま顔をふせた。礼を言いたいが、できない。ただ乱れに乱れたかぶりを、いくども、縦にふるばかりである。「おら、与吉っていうんだ。おらの背中にのるがいい。うちまで送ってやる」そういい終えると与吉はふうと息を吐いた。「あい……」およねの声はかぼそいが、両のまなざしはさっきまでより明るい。与吉はそう感じた。打ちひしがれている、およねになんと声をかけていいか、考えていたのだろう...巴波川・恋の舟歌(7)

  • 巴波川・恋の舟歌 (6)

    およねは身支度に気をつかった。いかにもいいとこのお嬢さんだと思われぬよう、茶系の格子模様の入った着物を身につけた。豊かな髪に紺の手ぬぐいをかぶせ、その一方のはじを歯でかんだ。うちを出るときから、およねは緊張しっぱなしである。知り合いに出くわしたときなぞ、思わず下を向いた。心の臓の動きがやたらと速い。はるかに、念仏橋のたもとが見えた。ほの明るい仁吉の屋台。そのまわりが人でにぎわっている。およねは近づくのをためらい、しばらくたたずんでいた。唐突に人声が近づいてきた。桜見物の帰りでもあるのだろう。町人ふぜいにのふたりの男が、およねの行く手にあらわれた。ひとりはほっそりしている。もうひとりは相撲取りと見まがうばかりの大男である。「よう、ねえさんよう、こんばんは」ほっそりしたほうが、およねの前に立ちふさがり、両手を...巴波川・恋の舟歌(6)

  • 巴波川・恋の舟歌 (5)

    「あっ蕎麦屋さんの、いっ、いつもどうもごちそうさまです」「へい、なんのなんの」およねはしばし黙りこみ、落ち着きなくあたりを見まわす。顔が紅くなるやら青くなるやら、こころの動揺が隠せないでいる。およねの緊張がただならぬ、そう思った仁吉は気をきかした。「いやあね、きょうはあっしの着物をひとつ頼もうと思いやしてね」むりに笑顔をつくった。「ええ、はい……」およねはほほ笑む。さすがは呉服太物を商う越後屋の糸さんである。一瞬、個人の感慨に、みずからの立場を忘れそうになったがすばやく、心構えをたてなおした。背筋をしゃんとのばし、着物の乱れをなおすふりをしながら、「すみません。何用があるのか、恥ずかしい事ですが店の物がおりません。おいそぎならご用の向きをつたえておきますが。ちょっとお待ちいただけるのなら、どうぞここで」お...巴波川・恋の舟歌(5)

  • 日光の奥山へ。

    この冬の寒さをたえがたく感じるのはじぶんひとりだろうか。四十代になったわが次男坊。日々五時起きし、さっさと勤めに出かけてしまう。やはり、年老いたせいかと苦笑してしまう。日光連山を有するわが県。想像もつかない、冬景色が広がる。先日テレビで、中禅寺湖畔の現在の模様をご覧になった方もおられるだろう。一に、龍頭の滝。大きすぎるつららが見ものだ。それは広く知られていて、ひとめ見んがために勇敢にも、雪と氷でおおわれたイロハ坂をのろのろとのぼって来られる。「温泉は平地にもあるのにどうして。あんな寒いところへ?」いぶかる妻をむりに誘う。「おまえも日頃、一生懸命働いてるんだし」「気づかってくれてるんだ。それほどいうなら行くけど、もう歳なんだし、ぜったいスキーやるなんて、いわないことよ」想定内のセリフである。「うん、わかって...日光の奥山へ。

  • 巴波川・恋の舟歌 (4)

    それからひと冬越えた。時節は、春。ひゅうっと風が吹きすぎて、薄桃色の花びらがおよねとおまきの肩にかかる。満月である。夜桜見物としゃれこむ人たちが巴波川沿いの道を大平山の方向に歩く。ふたりはその人の群れから、ようやくのことでのがれた。「ふう、ああしんどかった。人ごみって、いやね」およねがため息をついた。「そうよ。からだは疲れるし気もつかう。酔っぱらいはいるしスリもいる。女だと思ってとんでもないことをしでかす連中だって」「うん」「あたしらは、一本二本の桜見でじゅうぶん。さあ急ぎましょ」ようやくふたりは町中に入った。「もう、くたくた」おまきが青ざめた顔で言う。「あたしもよ。でもきれいね。巴波川、どうしたんやろ」巴波川のおもてに、薄ころもが敷いてあるのかと思ったら、よく見ると、さくらの花びらだった。ようやく、ふた...巴波川・恋の舟歌(4)

  • 巴波川・恋の舟歌 (3)

    およねの父、呉服太物を商う越後屋吉兵衛は大のそば好き。生来、うどん好きだったが、上州から入る蕎麦を、よく食するようになった。蕎麦がきやらなにやら、蕎麦と名の付くものならなんでもござれである。吉兵衛に聞けば、うどんやそばの来歴がぴたりとわかる。そう世間がうわさするほどであった。「おとうたん、あたちも連れてってくれるんでしょ、おそば食べにね、きっとよ」日が沈み、たそがれどきになると、五歳になったばかりのおよねは吉兵衛にまとわりついて離れない。「いやいや、だめだね。おまえはおさなすぎる。もっと大きくなってからだ。それまではおっかさんが買ってきてくれるゆでめんを食べてるといいぞ」「そんなのいや、あたしもうずまがわのたもとのやたいでふうふうしながら、そばを食べてみたい」「まったく聞き分けがない子だね。お外は風がびゅ...巴波川・恋の舟歌(3)

  • 巴波川・恋の舟歌 (2)

    およねはその頃、親友のおまきの家にいた。いつもと様子がちがう。髪はみだれ、着物のすそが汚れている。ふたりがいるのは、次女のおまきがむりやり父親に頼んで造ってもらった裏庭の隅の小さな家屋。おまきはそこに入るなり、持っていた巾着袋を、むぞうさに部屋の隅にほうり投げた。畳の上にぺたりとすわりこみ、ぐったりした風情をみせた。「へんなおよねちゃん、いったいどうしたんだろ」おまきが問いかけても、すぐには答えない。おまきが産声をあげた長崎屋。この町の中堅の呉服屋のひとつで、およねとは幼なじみ。家が近くふたりは顔を合わせるごとに、共に遊んだりふざけあったりして育った。子どもらしい天真爛漫さから来る気持ちから、ふたりにしかわからない方法で、互いの家を行ったり来たり。そんな秘密の雰囲気を、子ども時分から養っていた。いつもなら...巴波川・恋の舟歌(2)

  • 巴波川・恋の舟歌 (1)

    およねの母おようは、二階から急ぎ足で下りて来るなり、玄関わきに陣取る大番頭の嘉兵衛にむかって声をかけた。「あのさ、吉さん……」急ぎの用でもあるのか、そわそわして落ち着きがない。しかし、胸に飼い猫のたまなどかかえ、なでさすっているから、大したことじゃないようだ。「へえ、なんざんしょ、おかみさん。なにかご用で?」嘉兵衛はうわべは冷静をよそおっているが、内心穏やかでない。越後屋に奉公してから二十年。おかみがみずから番頭に声をかけることなどめったになかった。おようの息が荒い。「お、およねを見なかったえ?」声が一段と小さくなった。「こいさんどすか。みいしません。朝のうちは、いやはりましたけど、お昼過ぎてからはどこへ行かはりましたか……」「そうかえ……」おようは蒼白になり、くいっと口を歪めた。「ほんまに困った子や。姉...巴波川・恋の舟歌(1)

  • かわいいお客さま。 (3)

    翌朝、早く目をさました。午前五時を過ぎているが、辺りはまだ暗い。わたしの左足を、ふいに何かがかんだ気がして、急いで飛び起きた。何ごとが起きたのかと、寝ぼけた頭で考えてみるが、すぐには判らない。右手を天井に向かってのばし、蛍光灯のスイッチを入れようとした。するとまた、急に左足が痛んだ。(一体、何が起きてるんだ)ゆうべのことを思いだそうとするが、なかなか思い出せない。またまた認知症の走りかと、情けなくなってしまった。若年性認知症というのがあり、人によっては五十前後でかかるらしい。じぶんの妻をコンビニまで車で送ったのはいいが、すぐさま夫が帰宅してしまう。妻が買い物を終えた妻が、夫の車を探すが、駐車場のどこにも見当たらない。そういった具合だ。古希をいくつも過ぎた身である。いつなんどき、認知症にかかってもおかしくは...かわいいお客さま。(3)

  • 巴波川・恋の舟歌 プロローグ

    下野の栃木の地、巴波川のほとり。この日の昼間も、きびしい夏の名残の陽射しが降りそそぎ、江戸に材木を運搬しようとせっせと河岸で働く人々の身体を熱くした。だが、夏から秋へと時節は確実に移り変わっていく。夕暮れになり、ひんやりした風が吹き過ぎようになると、風邪をひいてもいけねえと彼らは帰り支度を急ぎながら、彼らは汗ばんだからだをぬぐった。川筋から町の中心部に向かって少しばかり露地を入った裏長屋。河岸の喧騒は、ほとんど届かない。そこに三十歳くらいの仁吉という男が住んでいる。やせ形で背が高い。彼みずからがどさまわりの女形でやんすと口上を切っても、さもありなんとみながうなずくくらいに端正な顔立ち。不思議なことにいまだ女房がいない。あいつの客はほとんどが女だから、きっとやつは遊び人にちげえねえと、巷のすずめたちがうるさ...巴波川・恋の舟歌プロローグ

  • かわいいお客さま。 (2)

    心臓がバクバク言っている。それが私を幼い日の想い出に導いてしまう。戸外を吹きすぎる風の音をこわがったり、安心感を得るために、母の乳首に、赤子の弟とともに吸いつき、しまいに唐辛子で撃退されたりした。「ほんまにお前はなんぎな子や。おっきなったら、じぶんの子に笑われてしまうで」つかの間のためらいのあとで、襖の向こうにたたずんでいるはずの人影に声をかけた。「誰かいるのかい」声に出すことで、いくらかでも恐怖心ががおさまることを期待してしまう。なんらの返答もない。(ひょっとして、さっきの足音は幻聴だったのかも……、たぶん寝ぼけていたんだろう。きっとそうだ)そう割り切りたいじぶんがいるのに気づき、わたしはかすかに笑った。このところの体調のわるさに、辟易していた。それが春先にコロナに感染したせいだと思わないでもない。新型...かわいいお客さま。(2)

  • かわいいお客さま。 (1)

    このところ、体の調子があまり良くない。とりわけ生来の皮膚の弱さがたたり、ぬくもると、足といわず手といわず、たちまちかゆくなってしまう。すり傷、切り傷はご法度だ。ひどい時は、湿気の帯びた個所が、かびにやられたりした。わたしは暇さえあれば、まるでお天道さまにたよろうとするかのように、縁側にすわりこんだ。「日向ぼっこかね」となりの奥さんに、よく笑われた。ある日の夜、どうしたことか、とりわけ寝つきがわるかった。目を閉じても、わるい夢ばかり見る。(起きて、本でも読んだほうがいい)わたしはそう思い、ベッドの上でゆっくり体を起こした。ゆうべから冷たい雨がトタン屋根をたたいていた。秋から冬へと季節が、確かな足取りで、めぐりだしていた。夜半はめっきり肌寒い。二枚のかけぶとん、ずいぶんと軽い。それらを一枚ずつ、両手でつかみ、...かわいいお客さま。(1)

  • いつまでも、たたずんで。 (6)

    「としお、今まで何やってたの?ごはんどうするのよ。もう食事の時間は終わりよ」母の菜月が語気強くいっても、敏夫はうつむいたままで階段をのぼろうとする。「としおっ」菜月が一段と声をあげた。「いいよ。ぼくあまり食べたくないから」いつもより敏夫の表情が暗く、元気がない。それを察した父の公彦が、母と息子の対話に割って入ろうとした。「お母さん、心配してたんだから、一言くらいしゃべったっていいだろ」優しく言う。「わたしと敏夫の話なんです。あなたはちょっと口を出さないでいただけますか」公彦はああといい、椅子から立ち上がった。「やりのこした仕事が山積みなんだ。菜月、手が空いたら、コーヒー淹れておいてくれるかな。頼むよ」「はい」敏夫はじぶんの身に起きた、並木での不思議なできごとにどう対処していいかわからないでいる。母の小言は...いつまでも、たたずんで。(6)

  • いつまでも、たたずんで。 (5)

    「おにいちゃん、だいじょうぶう?」ふり向いた敏夫の顔が、よほど引きつっていたのだろう。一頭のロバに引かれた直方体の大きな乗り物の中から少女のかん高い声が飛び出した。「あっ、うんうん、だいじょうっぽいっ」敏夫は体勢をくずしながらも、白い歯を見せ、おにいちゃんらしく、返答にユーモアを交える。乗り物の車は、四本ともゴムでできていて、馬車が揺れるたび、天井付近に付けられた数多くの鈴がにぎやかに鳴った。「ほい、ぼく、気を付けるんだよ。この道馬車の往来がはげしいからな」「はい」ロバをあやつる年配の男の人が、野太い声で、敏夫をさとす。時おり、ごほんごほんと咳をする。(おかしいな、あんな馬車、前からこの道走ってたんだろか。それにあの女の子って、うっすら見おぼえがある。だけど、どこで会ったかなんてわかんないな。うちの学校の...いつまでも、たたずんで。(5)

  • いつまでも、たたずんで。 (4)

    今日は土曜日。学校に行かなくてもいいんだと思うと、敏夫は晴れ晴れした気持ちになる。低学年の頃から先生にかぎらず、他人からなんのかんのと指図されるのをきらった。生まれ落ちた時からのたちのようで、敏夫が三歳になった時、母方の祖父が、「そうかそうかとし坊はごんたろうか。この子は目鼻だちがおれにそっくり。寄ればさわればぎゃあぎゃあ泣いてばかりいるところをみてもな。よっぽどの人嫌いなんだろう」と苦笑いした。「まあ、代々の先生一族、こんなふうでもそのうち何かありがたい仕事にありつけるかもしれんな」ごんたろうを育てている嫁さまの手前。栄次郎はそう言い添えるのを忘れなかった。敏夫の住む家は、ふたつある杉の並木道の間にある住宅地の一角にある。それらの道はYの字型になり、ついにはひとつの大きな道路につながる。およそ百軒。ほと...いつまでも、たたずんで。(4)

  • いつまでもたたずんで。 (3)

    その夜、敏夫は早くベッドに入ったが、なかなか寝つけない。眼をつむっても、今日書きだした物語の登場人物がひとりひとり、頭の中に浮かんでは消える。老人、男の子、女の子。三人がそれぞれにああだこうだと物語の筋に注文をつける。敏夫はとても疲れた。彼らがあまりに活き活きしているからだ。まだ小学生のくせに、作家気取りでこんをつめたからだろう。いまだに眠りに落ちもしないのに、と敏夫は思う。小説を書くことは、まるで雨にずぶぬれになった衣服を身に着けて道を歩くのに似ていて、ほとほと疲れる気の重い作業らしい。そんな感想を、敏夫は某大学の准教授をしている父の本棚の中で目にした覚えがある。ほめているのか、けなしているのかわからない。ともかく姉の恭子の言葉も敏夫のいらいらに一役かった。ベッドの上にすわりこんだ敏夫は、じぶんの頭を、...いつまでもたたずんで。(3)

  • いつまでもたたずんで。 (2)

    「なんとかならんかのう?このままじゃあのやつら、じき、病気になって死んでしまうわい」老人はたくわえにたくわえた長くて白いあごひげをしわくちゃの右手でつまむと、しゅっしゅ、しゅっしゅとさすりだしました。やせて肉が落ちたく眼のくぼみの底で、年老いて死んださんまの目のようになった瞳が、急に怒りをふくんでぴかりと輝きます。「あのやつらって、だれ?ねえおじいちゃん。誰が死んじゃうの」「わしの仲間たちじゃ」「それって人間でしょ?おじいちゃんみたいな、せきコンコンの人たちいっぱいいるんだね」「ああ……」「大きな木がいっぱい列になってるところでしょ、あっちのほうにお年寄りの方たちを世話をするところがあった?」「まあ……、な。あるよ。ぼくにあれこれ言ってもわかってもらえんだろうな」「えっ、わかるよ、ぼく、なんだって」「そう...いつまでもたたずんで。(2)

  • いつまでもたたずんで。 (1)

    ある晴れた春の日の午後。大杉村の小谷川のほとりは、子どもたちでにぎわっています。網を手に蝶を追いかける子がいます。れんげや青い小さな花たちが、川の土手をかざっています。つくしんぼうをつんでいる子もいました。水際でぼう竿をもち、釣りにむちゅうな男の子もいました。針の先にはごはん粒が付けてあります。男の子は、うきの先を、しんぼう強く見つめています。「どうだね、坊や。つれたかい」杖をついた、しらが頭のお年寄りが声をかけました。「うん、一匹だけ」バケツの中で、小さな魚がはねまわっています。まるで空から虹が下りてきたようです。「きれいな魚だね。名前はなんていうの」「タナゴっていうんだ」「へえタナゴか。おもしろい名じゃな。ううう、ごっごっほん」「おじいちゃん、どうしたの」「ときどきな、せきが出て、止まらなくなるんじゃ...いつまでもたたずんで。(1)

  • 10月8日(土) 晴れ

    朝八時、起床。頭の芯の疲れは、まだ取れないでいる。わるい夢をふたつほど見た。うなされていたらしい。気温十度に満たないくらいのゆうべの寒さである。縦にかぶっていた厚めのふとんが、気が付くと横向きになっていた。今少しで、みずからのあえぎ声で目がさめてしまうところだった。悪夢の内容は、憶えていない。昼間もそれらを引きずり、生きていかなきゃならないとしたら……。ゆめとうつつの境がはっきりしなくなったとしたら、怖くてどこにも出かけられないだろう。こころとからだ。これほど科学万能の世の中になっても、それらのつながりがどうなっているか。さだかでない。科学は自然を究明するための、ひとつの手段に過ぎないと思うからである。自然は深く、とても奥行きがある。神でない、われわれ人間にとって、とうてい理解をきわめるのはむずかしいだろ...10月8日(土)晴れ

  • 10月1日(土) 晴れ 残暑きびしい。

    新しい月に入れ替わった。10月。旧暦ではなんといっただろう。むつききさらぎやよいうづきさつきみなづきふつきはづきながつきかみなづきしもづきしわす手元にあった高島歴をひもとく。ああ、そうだった。神無月というんだった。神さまがおられないんだ。どうしてだろう。中学二年生の秋だった。そんな思いを抱いたことがあった。八百万の神々が集う地、出雲に出かけてしまい、他の土地は神なしの月になる。そんな意味合いだそうだ。今、ようやく中学二年生の時分の疑問が解けた。その頃のみずみずしさにあふれた頭脳は今はない。物忘れや体の不調に気をもむ日々である。古希を過ぎても前頭葉をきたえることで老化を防げると聞いた。がんばりたいものである。「にんなじのあるほうしかんなづきのころくるすのというところをすぎて……」(徒然草だったろうか……)古...10月1日(土)晴れ残暑きびしい。

  • うぐいす塚伝 (37)

    路地に出てきた女性は、どうしたことかすぐには家に入らず、お勝手の前でたたずんだままでいる。薄いパープルの眼鏡を、細くて長い指先でちょっとずらし気味にし、人を値踏みするかのような視線を走らせる。洋子の身なりを、上から下までじろじろと眺めた。「ねえ、鈴木さん。あの人、ちょっと気味わるいわね。さっきからじろじろこっちを見てるわ」首をまわし、背後を観ている洋子の右肩に鈴木はそっと手を置いてから、「根本さん、前を向いて歩きましょ」と、うながした。「きっと、あの方、わたしがカジュアルな格好のままでのままで出てきたのがわかったんでしょね。不釣り合いないでたちがこっけいなんでしょうね?」「違うわ。洋子、考え過ぎよ、それって」それから、ふたりは、狭い露地を、いくつも抜け出ていく。三条通り界隈はもうこれ以上、開発することあた...うぐいす塚伝(37)

  • うぐいす塚伝 (36)

    十分も歩いただろうか。大通りを通りすぎる風がひんやりしてきた。洋子は、鈴木に借りたコートの襟を立てる。「ありがとう。とっても助かったわ」「どういたしまして。困ってるときはお互いさま。ここは、わたしたちが生まれ育ったところとずいぶん違うわ。言葉がちがうと考え方まで変わってくるのね」鈴木は日頃気にしていることを、率直に洋子に打ち明けてから、西の方を見た。太陽がいつの間にか、ずいぶん西に傾いている。大阪との境にそびえているのは、信貴山や生駒の山々である。ふりかえると、三笠の山や春日の原始林が眺められた。枯れ草でおおわれただけの山肌が、正月初めに焼かれるのを待っている。「東を向いても西を向いても、ほんと、山じたいがちがうわね。日光連山やつくばの山が恋しくなるわ。ちょっと前、ええっと、2014年だったかな。遷都13...うぐいす塚伝(36)

  • 老いを感じても。

    9月13日。晴れ。残暑きびしく、気温が30度近い。午前中、田んぼの草刈り。広さは一反歩あまり、おおよそ1200平方メートルである。両手で器械をふるうわたしは、疲れて思わずよろけてしまう。体重が軽くなったせいもあるだろう。近ごろ年老いたせいか、夜がよく眠れない。からだがぬくもると、かゆくなるのだ。直近の「うぐいす塚伝」描いていて、思わず筆先が揺れた。いったん、ネットに流した描写を手直してしまった。となりの田んぼは、稲穂がゆれている。大規模農家の方が作付けされたものだ。安易に貸したくない。苦労してもいい。そんな気持ちが、年老いたわたしを、野良仕事にかりたてる。足を切らないよう、慎重に刈っていく。米や麦の作り方やらなにやら、義父にもっともっと教えてもらいたかったなと思う。汗といっしょに、涙がこぼれた。はで木とは...老いを感じても。

  • うぐいす塚伝 (35)

    部屋で寝ころんだままの姿で、洋子はふらりと外出している。腰から下は、膝の部分がやぶけ、足がむきだしの黒のジーンズ。上着は、胸の青い下着が透けてみえるほどに薄い花柄のTシャツ一枚。そばを通り過ぎる人の誰もが、洋子の姿が奇異に映るのもむりはない。ちょこっと首を傾げては、振りかえった。「洋子さん、ちょっとちょっと……、もういい加減に歩くのやめてくれるかい?」付き従っている男が、洋子の手を取り、むりにでも脇道に連れて行こうとする。だが、洋子は無言のまま。まるで子どもがいやいやをするように細い両手を思い切り左右に動かし抵抗する。(おれが誰だか判らないようだ。なんか変だ。いちばん気になるのは瞳。いつもはこんなんじゃない。まるでとろんとしてまるで魚の……)「あれっ、誰だ」急に、男のジャンパーの左袖が、誰かに強く引っぱら...うぐいす塚伝(35)

  • うぐいす塚伝 (34)

    わたしは何者かに憑依されている。洋子の意識の中で、そんな思いが日増しに強くなってきた。夢かうつつかしれない。そう思い、洋子はじぶんのほほをつねるのだが、すぐに痛いという感覚が伝わって来る。洋子は哀しくなった。「ええいもうどうとでもなるがいいわ。矢でも鉄砲でも持ってくるがいいわ」声を出して、くじけそうになるじぶんを支えた。(こんな寒さの厳しい季節に、雪が降るのもかまわないで現れて、山の上に来いだなんて、たぶん若草山だろうけど。失礼だと思わないこと、それにわたしがじぶんに似てるって?どこぞの高貴のお方の御霊か知らないけど、まったく気がしれないったらありゃしないわ。もういい加減にして天国でもどこへでも逝っていただきたいわ)洋子は、そんな思いにかられ、時おり、深いため息を吐く。居酒屋での接客や、好きなショッピング...うぐいす塚伝(34)

  • うぐいす塚伝 (33)

    ビール一杯とお銚子二本。これくらいでおれって、酔ってしまうのかと自分でもあきれるほど、修の足もとがおぼつかない。「西端課長、しっかりしてくださいよ。どうしても送りたいっておしゃるから、わたしだって……、冒険してるんですから」いつの間にか、洋子は修に肩を貸してやっている。「ああわかってる。わかってるったら、武士に二言はないぞ」「武士ですかあ」「ああ、そんな気分になったんや。絶対におれは根本洋子を守ってみせるって」「ああもういやんなっちゃう。酔っちゃってどうしようもない。課長、アパートまでは行きませんよ。うちの住人、けっこう、うるさい人多いんですから」聞こえているのかいないのか、修は洋子に肩を借りながら、目を閉じて、何やらくどいほどつぶやく。「おれはな、ねもとようこが気に入ってるんだぞ。誰にも好きにさせるもん...うぐいす塚伝(33)

  • うぐいす塚伝 (32)

    冷えたビールを味わいながら、修は思う。昔もそうだったんだろか、ここって居酒屋の店内にしては静か過ぎる。修たちのほかに常連客らしい男たちが二三人いたが、少しも声をあらげない。いずれもひとり手酌でちびりちびりとやっている。(さすが世界遺産に指定された街だ。居酒屋の客だって紳士的になってしまうんだな)冬場ののどごしビールは、修にとって微妙な味わいだった。今回は雪になることなどまったく予想せず、比較的軽装でおん祭りを観に来た。ところが急なお天気の変わりよう。雪が降りだした。間もなく吹雪となり、どうすることもできずにしばらくその中でたたずんでいた。洋子も修も、身体は芯まで冷え込んだ。何を思ったか、だしぬけに洋子は修を飲みに誘った。先を行く洋子に遅れまいと、修は露地を懸命に歩いた。そのせいで、身体があったまり、ひたい...うぐいす塚伝(32)

  • うぐいす塚伝 (31)

    師走の中旬にしては、寒すぎる天気だ。粉雪が降るのは、いつも正月から二月にかけてである。猿沢の池のふちを歩いて、采女の碑の前にたどりつく、ほんの五分くらいの間にぐんと冷え込んだ。修は立ちどまり、祈るような面持ちで空をあおいだ。「ちょっとあったまってから、お帰りになりませんか」洋子は前を向いたまま、修にそう告げた。言い放ってからすぐに、洋子の胸に後悔の念がわいたが、もはや後戻りはできない。洋子は修の反応を見守ることにした。じぶんの意識がふうっとどこかへ飛んで行ってしまう。洋子を時おりおそう、そんな気分から、彼女はすでに解き放たれている。修は洋子が信じきれない。彼女から離れ、最寄りの柳の木のかげに姿を隠した。とっさに宇都宮のジャズバーでの出来事が、修の脳裏をかすめた。洋子という人間は時おり、修があっと驚くような...うぐいす塚伝(31)

  • うぐいす塚伝 (30)

    洋子は猿沢の池のほとりを歩きだす。まるで何者かに誘われるかのようで、あえて足の動きをとめようとするが、無駄だった。(どうしたのかしら、わたし……、じぶんでもわからない)ついには小走りになり、池の東の端にある石碑の前にまでいたった。何の木だろう。となりに一本、植えられている。吹雪となった。「ひどい雪だわ」洋子は首に巻いたマフラーを、頭にかぶせるようにした。石碑のおもてにみるみる雪が降りつもってしまい、刻まれた文字が読み取れない。ふいに誰かの両手が洋子の両肩に触れた。その触感で、相手が誰であるか見当がついたが、洋子は何もいわない。突如として風にあおられた粉雪が、白い衣のようになって舞いあがり、木の枝にまといつく。(まあ、なんてきれいなんでしょう。自然のいたずらにしては、あまりに出来過ぎてるわ)洋子は寒いのも忘...うぐいす塚伝(30)

  • うぐいす塚伝 (29)

    三条通りの両脇に群がった人々の視線がいっせいに春日大社方向に向けられた。人の背丈の二倍はあるだろうか。飾りをいっぱい付けた数本の槍の穂先が、生きのいい男のかけ声とともに、空にむかって突き上げられる。そのたびに人々がどよめいた。通りはすでに人でいっぱいである。窮屈な思いでいた修と洋子だったが、まわりに人が少なくなっている。道の両脇で高みの見物としゃれこんでいた人々が、行列が近づくにつれ、少しでも近くで、と願った。ふたりも彼らにつづいた。「あっ、足もとに気をつけて」洋子が最後の石の階段を踏み外してしまい、彼女の態勢がぐらつく。すかさず、修の左手がのびた。「こういうのを黒山の人だかりっていうのね。たこ焼き屋さんやお好み焼き屋さんに群がる人もいたりで。あら、苗木も売ってる」「根本さんは知らないんだね。この行列のこ...うぐいす塚伝(29)

  • うぐいす塚伝 (28)

    修が先に立って、南円堂に通じる小路を歩いて行く。松の木がまばらに生える砂利道がつづく。「あっ、西端さん。どこへ行かれるんですか。そっちは……」がけっぷちになってますと言おうとして洋子は口ごもった。「ちょっとね、猿沢の池が見たくなったんですよ。わたしも久しぶりですし」「ええ、ええ、わかります。私だって」洋子は遅れまいと、速足になったとたん、小石につまずき、あっと声をあげ、ひっくり返りそうになった。修の対応はすばやかった。洋子が地面に倒れる寸前にかけより、両腕で、彼女のからだを支えた。修の両腕に力がこもる。じわりとあたたかいものが、洋子の胸の奥からわいてくる。宇都宮の会社をやめてからこれまでの葛藤がうそのよう。太陽をおおっていた灰色の雲が風に吹かれて流れ去っていくようであった。「西端さん……、ありがとう」洋子...うぐいす塚伝(28)

  • うぐいす塚伝 (27)

    それから、三か月。洋子は仕事にも人にも馴れ、生活するにはひととおり困らないようになった。しかし話がちょっと込み入ってくると、ぬるぬるしてつかみにくいウナギのようなもの。相手の本音をつかむのがむずかしく感じる。なかなか本音で話してもらえず、いらいらすることが増えた。言行一致の関東の言葉になれた洋子だったから当たり前である。その日の午後、洋子は師走の買い物客でにぎわう通りを歩いてみる気になった。近鉄奈良駅で降り、エスカレーターで地上に上がると、噴水の中に行基像がある。北側の四車線の道路は、車でいっぱい。両手で耳をおさえるようにして、いそいで東向きの通りに入る。しばらく南にくだるように歩いて行くとほどなく三条通りにでる。そこを横ぎり、ねじり鉢巻きで、威勢よく餅をつく男の人や物見客の群れのわきをすりぬけるようにし...うぐいす塚伝(27)

  • うぐいす塚伝 (26)

    いざとなりゃ自力で身を守らないとと、洋子は右手に持った手ぼうきの柄を、ぎゅっとにぎりしめた。語気強く、はいっ、と応じ、左手に持ったドアの取っ手を、廊下側に、ほんの少し押し出してみた。だが、目の前に人影がない。廊下の右側と左側。起きがけでうすぼんやりした頭で、くまなく視線をさまよわせた。しかし、猫一匹発見できない。(この分じゃ、あいつはもう、この階にはいないかも)洋子は一階につづく階段の様子を、頭の中に思い描いてみた。わずかに階段がきしむ。(やはり、来たんだ)洋子は追いかけたくなったが、恐怖心が先に立つ。脚がすくんだ。お昼にはまだ間がある。ふいに、いくらかひんやりした空気が、洋子の右ほほに触れた。二階の部屋に住む誰かさんが、ドアをふわりと開いたのだ。「根本さんか?どうしたん。あんまりうるさくしないで」二階の...うぐいす塚伝(26)

  • うぐいす塚伝 (25)

    根本洋子は奈良にいた。安ホテル住まいは、ほんのしばらくの間。貯えがすぐに底をつき、なんとかして働かねばと一念発起した。交通の便がいい近鉄奈良駅付近に狙いをさだめ、歩きまわった。道を訊いた人々はだれもが、洋子に優しく接してくれた。住まいが決まった。猿沢の池のほとり。土手を離れ、するりと露地に入り、しばらく歩けば、まったくひとめにつかない場所に入りこめた。そこに望むアパートがあった。昭和の万博のポスターがいまだに廊下の壁に貼ってあるようなアパートの二階。歩くと木造りの階段がギシギシ鳴る。トイレはあるが、風呂はない。しょうがないから、シャワーで我慢する。よほど風呂に入りたければ、近くに大衆浴場。アパートからゆっくり歩いて五分くらいの道のりである。「あんたはん、この辺りであんまり見かけへんお人やね」お風呂場で裸の...うぐいす塚伝(25)

  • 誤解です。

    いまだにコロナ禍が終息する気配が見受けられないのに、突如としてロシアがウクライナに侵攻。老若男女を問わず、日々、ウクライナの民が傷ついたり殺されたりしているのをテレビニュースで知らされてばかり。国内でもほぼ同様、いくさに巻き込まれないだけで悲惨な事件事故が後を絶たない。何ごとにも思慮深い塾講師Kの表情に、なかなか明るさがもどらない。しかし、精神的な重圧にあえいでいるのは、彼だけではない。誰しもがかかえる、マイナス要因である。彼だけが地球をまるごとしょいこんだように、へこんだ気分でいるには及ばないのだけれども、そこが性格というもの。すでに老境といっていいKは、いつしか猫背になってしまった。それを彼の妻が気づいた。「あなたね、まったくどういう了見なんでしょうね。いっつもいっつも暗い顔でね、背骨が曲がってきちゃ...誤解です。

  • 異空間。

    高速道路を走るバスの窓から見える景色は以前と変わらない。ふたつ名を持つT川を渡ると、すぐに田畑がとぼしくなった。しだいに建物や車が視界いっぱいに広がってくる。A川の橋をわたると、もっと混雑した。「あれね、スカイツリーって。なんだかでっかいつくしんぼうみたい」後ろでかん高い声がした。「そうよ、そうよね。わたし、これでようやく二度めかしら」バスの乗客は、ほとんどが女性。少なめの男性はだんまりを決め込んでいる。首都高速に入ると、もっと強い違和感に身をつつまれた。Kの眼にちらと細い路地が飛び込んできた。転がり、道をふさいでしまっている青いプラスチック製のバケツ。そのわきを、黒い猫が態勢を低くして通り過ぎていく。一瞬の景色だった。左右を見定める知恵が、犬のようにあるわけがない。その猫はしゃにむに大通りを渡ろうとして...異空間。

  • うぐいす塚伝 (24)

    西端修は根本洋子の従姉岩下に、まなざしきつく言われたことが容易に忘れられない。洋子が旅にでたことが、どうしてじぶんとかかわりがあるのか。おそらく洋子はそのあたりの事情を岩下に打ち明けたのだろう。洋子が社をやめたこと、それに岩下の話の具合から察すると、出奔にも似た形で旅に出ているらしい。旅にもいろいろある。ふいになになにの旅立ちという言葉が、ふわりと脳裏に浮かんで、修はあわてて首を横に振った。洋子には男のきょうだいが複数いる。どちらもまだ結婚せず、会社勤めだったり農業を営んだりしている。だから洋子は長女だが自由に生きられる。「旅行が長くなっても心配しないで。お金が底をついたら働くかも」「そんなこと言ったって、おまえ、若いみそらで、わるい男にでもつかまったらどうするんだ」彼女の父は大反対しただろう。洋子には母...うぐいす塚伝(24)

  • 気づかい。

    「お母さん、もう洗濯ものとりこんだほうがいいよね。ちょっと雲がでてきたみたいだから」庭先で畑づくりをしていたM男が、彼の妻H子に向かって大声で言う。今や、彼女は台所にいて、夕食の準備にいそがしい。現に、包丁がまな板をたたく、トントントンいう音が、庭にいるM男の耳に届いている。しかし、M男がいくら待っても、H子から応答がない。(おかしなことだけど、H子はたびたびそんなことをやらかす)M男は鼻歌をやりだした。若いころ流行った浪漫飛行である。M男のそばで、クローバーの花を、ひとつふたつと数えながら、摘んでいた彼の娘S子が急に立ち上がり、「おとうさん、じょうず」と言った。そして、台所の勝手口に向かってかけだそうとした。とっさに、M男は彼の娘の背中に、「ほら、行かないでいいんだよ。ここにいなさい」S子はふいに立ちど...気づかい。

  • 体調管理をしっかり。

    こんにちは、ブロ友のみなさま。また、つたない記事を読んでくださる方々。お恥ずかしい事ですが、からだがちょっとばかりこわれ、記事を上げる気力が不足しています。暴飲暴食の心当たりはないのですが、この四五日、ろくにものを食べられないでいます。おなかにはもうひとつの脳がある。そういわれるほど、大事なパーツですね。かかりつけ医にみてもらいました。久しぶりに、おなかを触診され、いろいろ訊かれました。発熱や吐き気がなけりゃ、だいじょうぶとのこと。安心しました。つゆの時期です。食べ物に留意したほうが良さそうです。古希を過ぎた身体です。若いときのように、むちゃな飲食はできません。今回のことで、それがよくわかりました。みなさまもご注意なさってください。また、がんばって記事をあげますから、今しばらくお待ちください。体調管理をしっかり。

  • うぐいす塚伝 (23)

    修と岩下の話はもう、半時間にもおよぶ。しかし、なかなか、根本洋子にかかわることに到達できない。修はいらいらしてきた。あえて目をほそくし、喫茶店の窓から外を眺めた。雨が小降りになっていた。「あの旅から帰って来て、ずっとね。わたくし気になってたことがあるんですのよ」岩下がふいに言った。「はあ、なんでしょう」修がぼそりと言う。「京都や奈良の観光地、どこも特色があって素晴らしかったんですけれど……」「そうでしょうとも。京都じゃどこに行かれたんですか」「嵐山まで足をのばしました」「そりゃ良かった。保津川あたりの桜、きれいだったでしょう?もっとも人出が多いから、じゅうぶんに楽しめなかったでしょうけれど」「ええ、とってもきれいでした。人出がまあまあでしたね。ひばり館、楽しみにしてましたけど、なんだか休みだったみたいでがっかり...うぐいす塚伝(23)

  • ゆめゆめ、ご油断し給うな。

    コロナ禍や人のうわさの恐るべしオミクロンかかりしものがすべて知るこれくらい負けてたまるかオミクロンふいの熱子を助けんと運転すコロナ禍で家族の絆ふかまりぬウイルスも自然の一部と度胸すえ経済も回さないととお上言い自宅療養が解除なって、ほぼ一か月。家族全員、おかげさまで体調が回復しつつある。わたしはアレルギー体質のため、アナフィラキーショックを恐れて、ワクチンを一度も打たないでいた。症状が出て三、四日は37度からまりの発熱、それに激烈な喉の痛み。保健所で検査を受けると、陽性ですとの報告。高齢のため入院を勧められ、一泊二日するが、コロナ対応の点滴を受けず、薬ものまない。ただポカリスエットに似た成分の点滴を受けただけだった。七十を越えたじぶんの年齢を考えると、これくらいで済んだ原因は?詳しくはわからないけれども、幼い頃か...ゆめゆめ、ご油断し給うな。

  • うぐいす塚伝 (22)

    宇都宮の郊外こと。近くにしゃれた喫茶店は見あたらず、ふたりは二十分くらい歩いた。運動不足の修は先ほどから足ががくがく。「ここがいいですわ。時々、暇をつぶしているものですから」「ほんま助かりましたわ」チャリンと鳴る音に、店の主人とおぼしき女性が振りかえった。彼女は何にも言わず、顔を店の奥に向けただけだった。「よく来ておられるんで?」「ええ」ふたりのおしゃべりが進むにつれ、岩下と名乗るその女は、やはり修が過日若草山にのぼる途中で出くわした、ふたりのうちのひとりであることが判明。「しかしまあ、こうして再び会うことができるなんて……、まるで神さまのお導きがあったようで。わたし故郷は奈良なんですが、ちょっといろいろありまして。こんな遠いところで生計を立てています」うちに秘めたたくらみを、相手に悟られぬよう、修はしゃべり続...うぐいす塚伝(22)

  • うらみつらみ。

    なるべくことをあらだてない。いつの頃からか、それがわたしのモットーになった。若さを失くしたせいだけだろうか。人さまの想いは、なかなか、こちらの思惑どおりにはいかないものである。境界のはざまに咲きし花あわれ白き花なぜにあしたは色を変え雨上がり妻が抜き取るしおれ花いかり顔見せまいとして涙ためこぼれ花運のわるさを嘆くべき人の欲には切りがない。わずかな土地で、権利を主張し合う。花のいのちの短さを考えてやれないのだろうか。互いの気持ちを考え、おだやかに日々を送りたいものである。うらみつらみ。

  • 五七五にまとまらず。

    じぶんが感動したようなことを、なんとか五七五にまとめようと試みるのですが、うまくいかない。むずかしいものですね。基礎的なことに、うといせいでしょう。縁側にすわり、花たちを眺めたり、ときたま降りて来る小鳥を観察するのにあきてしまい、そうだ、人間が描かれてないとだめだと思いました。小説と同じく、観察が大切と、スケッチしようと町に飛び出してみました。最寄りの図書館に行き、まずは俳句の会の存在を確かめる。残念ながら、コロナ禍で、会が開かれていないのでしょう。会報が見あたらない。ちょっと足を延ばしたさくら市。図書館の隅に置かれていましたよ。俳誌「麦兆」228号35ページにものぼる立派なもの。さすが歴史ある、足利氏ゆかり喜連川ならではと、感じ入った次第です。はてさて、ここからはどうぞ読み飛ばしてくださいね。老いの小道と名付...五七五にまとまらず。

  • うぐいす塚伝 (21)

    どうせ気ままなひとり暮らし。公園の閉門時刻には、まだ余裕がある。せっかくここまで足を延ばしたんだし、と修は新幹線の高架方面に歩きだした。雨粒がぽつぽつ落ちてきて、修の肩を濡らしだす。修はチィッと舌打ちした。とたんに、ゴーゴーいう音が辺りの空気をゆるがす。新幹線には防音壁があるのだから、それほど大きい音はでていないはずだ。だが、修の耳には、中空を高速で走り抜けていく列車の音がまざまざと聞こえた。いや音だけではない。その長い長い、大蛇のような車体が、修の脳裏にくっきりと浮かぶ。修は若い頃、鉄道マニアだった。あるとき焦って、ホームから転落したことをきっかけに、さすがに追っかけはやめた。(俺が、こっちに来た時には、すでに東北新幹線を造る工事が、だいぶんと進んどったはずや。仙台まで列車が走ったのは、はてな、いつやったか…...うぐいす塚伝(21)

  • 芭蕉に手をひかれて。

    山路来て何やらゆかし菫草若い頃から、芭蕉は近江を愛した。生まれは伊賀上野。少年の時分から、天賦の才につき動かされたのであろう。琵琶湖のほとりに住んでいた北村季吟に俳句をおそわりたくて、険しい鈴鹿の峠を八度も越えたという。近江は昔、俳句が盛んだった。それは近江商人に負うところが大きい。彼らの教養のひとつとして、俳句に親しんだからである。大津市湖南市に芭蕉の碑がある。行く春を近江の人と惜しみける980句のうち近江で詠んだのは89句。彼がどれほど近江の地を好んだか知れる。芭蕉を好んだ作家・司馬遼太郎。彼が近江ファンになったのは、芭蕉のおかげであるわたしが短歌や俳句に興味をもったのは、中学二年生。国語の教科書にいくつか載っていた室生犀星や与謝野晶子の短歌にこころ揺さぶられた。小林一茶の俳句をふたつみっつと読んだ。わが次...芭蕉に手をひかれて。

  • 態度がこころだ。

    こうして物語を紡いでいると、登場人物のこころの内にもっと踏み込むことはできまいかと思うことがしばしばである。むろん物語は、作りごと。現実に、彼あるいは彼女が、この世に存在しているわけではない。じぶんが力を尽くして、考えに考える。それぞれのキャラクターを造りあげる。それしか方法がない。眼で見ることができないのだから、仕方がないのだ。見えるものと、見えないもの。人が一体何を思ったり、考えたりしているのか。判りようがないように思える。しかし、……。たとえて話すと、わかりやすいだろう。今、ロシアの大統領のプーチンさんは何を考えておられるのだろう。それは、日々、テレビを観ていると、察しがつきそうに思われる。プーチンさんがやっていることを観察すれば、おおよその見当はつく。戦車やミサイルを駆使し、隣国ウクライナを侵略している...態度がこころだ。

  • うぐいす塚伝 (20)

    根本洋子の退職が、西端修が、洋子を、夜の歓楽街にさそったことと関わりがあるのではないか。実際、洋子は不馴れなカクテルをたくさん飲みすぎて酔ってしまい、前後不覚におちいった。タガが外れたごとく、常日頃、洋子が修について思っていることが、一挙に噴出してしまったようだった。誰がみても醜態ととらえられてしまう行動に洋子を走らせた。知らない人がこの件を聞けば、「どうして若い女性新入社員を、カクテルバーに連れて行ったりしたのよ、ばかね」と言うに違いない。まさしく軽率な行動だった。洋子の提出した退職届けには、一身上の都合としか書かれていなかったけれど、それだけにますます、修のこころに罪の意識が芽生えた。(ほんとうにわるいことをしてしまった。どんな形でもいい。洋子が立ち直るのを助ける方法はないだろうか)修の勝手な妄想が、彼の心...うぐいす塚伝(20)

ブログリーダー」を活用して、油屋種吉さんをフォローしませんか?

ハンドル名
油屋種吉さん
ブログタイトル
油屋種吉の独り言
フォロー
油屋種吉の独り言

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用