今日は、イタリアの名曲「ネ・ラ・ファンタジア」をアップしました。空想の中ではみんな幸せに暮らしている、という内容の歌です。爺の青春ピアノ作曲はエンニオモリコーネ。音域の広い歌なので、高い音に照準を合わせると低い部分が凡庸になってしまいます。難しい曲です。新曲アップしました「爺の青春ピアノ」
今日は、イタリアの名曲「ネ・ラ・ファンタジア」をアップしました。空想の中ではみんな幸せに暮らしている、という内容の歌です。爺の青春ピアノ作曲はエンニオモリコーネ。音域の広い歌なので、高い音に照準を合わせると低い部分が凡庸になってしまいます。難しい曲です。新曲アップしました「爺の青春ピアノ」
誤嚥がほぼなくなった。家内が2021年の5月に亡くなってだれとも話をしないでいたら、誤嚥が激しくなった。そのとしの12月から弾き語りを始めたら、やく三月くらいで誤嚥がなくなった。これは驚くべき変化だった。楽器演奏は、認知症の予防にいいといわれているし、歌うことで呼吸器や腹回りの筋肉を多用する。実際に私はそういう筋肉がかなり強くなったと思う。そして楽しい。あちこちの集まりに呼ばれて歌わせてもらえるようになり、自分の世界が広がった。爺の青春ピアノピアノの弾き語りをはじめてよかったこと
二年前の70歳の時に、家内がなくなって心が空虚な時に電子ピアノの衝動買いをした。夢はショパン、といきこんだがもちろんだめ。じゃあ弾き語りで歌ってみたらどうだろうかと思い、歌ってみたらこれがビンゴ。懐かしの洋楽を中心に毎日一時間練習するようになった。もともと若いころに音楽理論を学んでいたこともあり、コードを押さえるだけならわりと簡単にできた。今年の六月から、ユーチューブにアップすることを思いつき、現在までに52曲アップしている。「爺の青春ピアノ」https://www.youtube.com/@user-si2mv6jm4yぜひ上から見て、聞いてほしいなと思う。私のピアノ弾き語り「爺の青春ピアノ」
「君の名は」作大山哲生私の名前は寺本勇。中学校長を最後に定年退職した。退職して十年余り経つが、まさか我が家に仏壇を置くことになろうとは夢にも思わなかった一今から二年前に家内は亡くなった。病死であった。退職してからは家内とけんかすることもなく、平穏にかつ楽しく暮らしてきた。私は、こんな幸せがいつまで続くのかとかえって心配になるほどだった。家内が亡くなった後は、その楽しかった日々が、さらに強くよみがえるようになり私を苦しめた。楽しかった日々を思い出しては、しこたま泣いた。二年経つと泣くことはなくなったしなにより涙が出ない。私は、それを少しだけ悲しい気持ちが薄らいだのだろうと思った。幸い、家事は退職後に分担したためにそれほど困ることはなかった。しかし、二年経っても足元が崩れるような絶望感が何度となく私を襲うので...「君の名は」
「才女」作大山哲生五十年前の京都鴨川高校。私は磯田光夫。無線部に所属していた。私は三年に上がるときに、理科系コースか文科系コースかでかなり迷った。電気工作は好きだったが、数学が苦手だったので、文科系コースを選んだ。クラスは三年二組。一私は視力がよくないので、席は一番前にしてもらった。隣は村田洋子だった。彼女も視力がよくないので一番前の席に座っていた。村田さんは、成績では学年トップという噂であった。私は、となりで彼女の授業態度を見ていたが、思っていたほどではなかった。私は、学年トップをとる者は、授業中も必死になってノートを取ったり、教科書に線を引っ張ったりしている者だと思っていた。村田さんは、ときどきノートに書くくらいで、私よりははるかに「のんびりと」授業を受けているように見えた。しかし、私が村田さんのすご...「才女」
「川西バンド」作大山哲生私の名は今泉学。京都の鴨川高校の出身である。一私が高校二年の時のことであった。私のクラスに川西誠がいた。川西は、自称「川西バンド」のリーダーなのである。高校に入ってから、バンド仲間を探して、川西を入れて四人編成のバンドを作った。練習は土曜日の午後で場所は学校である。別館と呼ばれた校舎の二階に図書室がある。図書室の手前にはけっこう広い踊り場のようなところがあり、掃除用具などが置かれている。川西らは、その踊り場にドラムセットやアンプ・ギターなどを置いていた。鴨川高校は校区内に多くの伝統芸能の師範などが多く、一時エレキバンドが校内で問題になったときに、師範などが学校に申し入れをしたという。「京都は過去に様々な文化を受け入れ育ててきたところだ、エレキバンドも立派な文化だから好きにやらせてや...夢語り小説工房作品「川西バンド」
「歌姫」作大山哲生昭和四十二年。鴨川高校。今から五十年前の話である。私は、山瀬和義。当時は鴨川高校の三年生だった。私は、中学の時にラジオ作りに目覚めて以来電気工作を趣味としてきた。高校では、入学するや迷うことなく無線部に入った。一無線部員は、男子ばかりの七人。三年生が四人で二年生が三人である。無線部は、どことも同じだと思うが、鴨川高校の無線部も集まってはだべるばかりである。技術的な話も出るが、歌手の話になると一段と盛り上がる。当時の芸能界を席巻していたのが、二十歳になったばかりの花咲マイである。パンチの効いた歌唱力に加えてダンスも踊れると言うので、歌姫ともてはやされ、テレビ番組には引っ張りだこであった。明星などの芸能雑誌の表紙を飾ったこともあった。ある日の午後、無線部の部室に七人全員が集まっておしゃべりに...夢語り小説工房作品「歌姫」
第273回夢語り小説工房作品「オカルト研究会」作大山哲生一五十年ほど前の京都の鴨川高校。一年四組に松葉茂がいた。入学するなり、松葉は担任にオカルト研究会を作りたいと申し出た。担任は、話は聞いたものの廊下の立ち話で却下した。松葉はあきらめなかった。生徒会担当の教師に直接掛け合った。放課後の職員室。松葉が生徒会担当の教師と話している。「松葉君、お前の言いたいことはよくわかった。同好会として発足するにしても生徒会からは部費がでる。部費は公金や。だから、入部予定者の氏名と活動場所と内容を書いたものを出してほしい。活動内容としては、少なくとも一年間継続して実施できる内容にしてほしい」と生徒会の教師は言った。松葉は、「わかりました」と言った。三日後、松葉は生徒会担当の教師に一枚の紙を提出した。「えーと、入部予定者は松...第273回夢語り小説工房作品「オカルト研究会」
第272回夢語り小説工房作品「クラブ対抗リレー」作大山哲生私の名前は今泉学。京都の鴨川高校の出身である。今から五十年ほど前の話をしてみよう。一私は鴨川高校に入学して、無線部に入った。無線部はみんなで六人。四人は同じ中学校からのラジオ工作仲間で、あとの二人は別の中学出身者であった。無線部員には共通点がある。まず、総じて体育が苦手である。ところが、同じ無線部員の久保田博は、いかにも体育系といういでたちであった。運動部に入ってもかなりやれたと思うのだが、本人は「おれは将来、電気回路の設計技師になりたい」と言っている。私が二年の時に、久保田は隣のクラスになった。体育は男女別で二クラス合同で行うから、私は一年間久保田と体育の授業を受けることになった。久保田の運動能力は、野球部や陸上部と比べてもけた違いだった。久保田...第272回夢語り小説工房作品「クラブ対抗リレー」
第271回夢語り小説工房作品「放送事故」作大山哲生私の名前は今泉学。京都にある鴨川高校の出身である。鴨川高校はいわば京都文化を凝縮したような高校で、校区には京都の文化人がたくさん住んでいる地域である。時は今から約五十年前にさかのぼる。私が高校一年の時のことであった。一十一月というのに暖かい日であった。鴨川高校では、昼休みには校庭の周りの芝生広場でおしゃべりに花を咲かせるのが文化になっている。よほどの元気者だけが校庭でソフトボールやサッカーに興じている。私も、クラスメイトの住田健太郎と芝生に座り込んで話をしていた。「あと一週間で期末テストや。いややな」と私が言うと、「ほんまや。おれなんか数学が全然進んでない。赤点だけはとらないようにせんとな」と住田が言った。「うーん、おれも数学は苦手や。中学まではなんとか理...第271回夢語り小説工房作品「放送事故」
第270回夢語り小説工房作品「鍵」作大山哲生一斎藤正雄、71歳。わけあって京都南部の自宅で一人暮らしである。斎藤の朝は朝食作りから始まる。朝の六時には斎藤の野菜を切る音が、広い家に響く。斎藤は野菜を切りながら思う。「自分は一人だ。家の中で話す相手はすでにいない。一人だ。未来永劫たった一人で生きていかねばならない」そう思うと、斎藤は足元が崩れていくような絶望感に支配された。手がとまる。涙がでる。しばらくすると斎藤は気を取り直しまた野菜を切り始める。足元が崩れるような絶望感は斎藤に何度も襲い掛かった。斎藤は、十か月前に妻の康子を亡くした。斎藤は退職してからは康子とは仲良く生活してきた。仕事を離れるとけんかする理由は全くない。それだけに実に残念だ。十か月前、突然康子はつじつまの合わないことを口走り始めた。斎藤は...第270回夢語り小説工房作品「鍵」
第269回夢語り小説工房作品「図画辞典」作大山哲生鴨川一郎。今年七十才になる。教職を勤め上げて退職し十年になる。退職後は完全にリタイアして趣味の生活を送っている。こう書くと、鴨川の生活はいわゆる悠々自適というものであろうが、鴨川本人はそうは思っていない。鴨川の心の中にいつも突き刺さっているとげがあり、心から平安な気持ちになったことはない。一鴨川が小学三年の夏休みのことであった。蒸し暑い午後、鴨川は小高い山の近くの林にいた。この日はいつもの遊び仲間が出かけたりしており、鴨川一人で虫取りに来ていたのであった。林の中を一時間ほど歩き回ったが取れたのはカナブンが三匹だけだった。こういうときに同じ町内の靖がいたらカブトムシがとれたのにと、鴨川は残念がった。靖は鴨川より一年上で虫取りがうまかった。鴨川が林から出ると池があっ...第269回夢語り小説工房作品「図画辞典」
第268回夢語り小説工房作品「再び」作大山哲生斎藤翔太、二十五歳。峠山中学の新採用の社会科教師である。一年生の担任をしている。日々、中学生を見ていると、斎藤は自分の中学生時代を思い出す。一斎藤が中学二年の時であった。斎藤は入学以来、帰宅部だった。部活に入らなかったのは元来しんどいことが嫌いだったのと、近所の小学生と遊ぶのが好きだったからである。斎藤の家は団地であるから子どもの数は多い。斎藤は近所の子どもと近くの空き地でソフトボールをするのが好きであった。いわゆる「ガキ大将」なのであった。斎藤は、下校するときにクラスの友達がうさぎ跳びをさせられているのを見て「ごくろうなことやな」と胸いっぱいの優越感に浸りながら校門を出るのだった。二しかし、その斎藤にも鬼門となるものがあった。それは、クラスの専門委員になることだっ...第268回夢語り小説工房作品「再び」
第267回夢語り小説工房作品「伊達君」作大山哲生一昭和三十八年。私が中学二年の時の話である。私は京都伏見の深草中学校に通っていた。私は二年二組であった。四月、二組の新しい教室に入って見回すと、一年のときに仲の良かった友達は誰もいない。私はがっかりした。四月のはじめに席替えがあったが、私は特に誰かと隣同士になりたいという気持ちはなかった。先生が箱に入ったくじを順番に持ってまわる。私は二十二番のくじを引いた。黒板をみると二十二番は前から三番目の一番窓際だった。私はカバンをもって移動した。となりに誰が来るかなとドキドキしていると、見慣れない男子が私の隣にやってきた。伊達雅之君だった。ほとんどの席は男女で並ぶのだが、男子の方が多いので男子同士の席がいくつかできる。私は隣が男子の方が気楽でよかった。伊達君とは、授業中によ...第267回夢語り小説工房作品「伊達君」
第266回夢語り小説工房作品「送られてきた詩集」作大山哲生伊藤茂。四十五才。伊藤は中学校の教員を二十年務めたのち、四十二歳のときに管理職試験を受けて教育委員会の指導主事になった。指導主事は、教育委員会事務局で仕事をする。ほとんどの指導主事は学校指導課、教職員課、研修課などに配属される。しかし、伊藤が配属されたのは人権指導室であった。人権指導室は教育委員会の中にあるが学校教育とは何の関係もなく、社会教育課と連携して市民に対しての人権啓発を行うのが仕事である。一「伊藤さん、今度の啓発映画はなににする?」伊藤が人権指導室に配属されて、しばらくして室長にかけられた言葉がこれであった。室長は、伊藤より六歳上である。元は小学校の教員であったが伊藤と同じように管理職試験を受けて指導主事になったのである。聞けば、毎年八月に市内...第266回作品「送られてきた詩集」
第265回夢語り小説工房作品「七体目の地蔵菩薩」作大山哲生一平安時代の話です。都に小野篁(おののたかむら)という人がいました。小野篁は小野妹子の子孫にあたり、小野道風、小野小町の祖父にあたると言われています。学識に秀で、優れた和歌をたくさん作ったことでも有名です。百人一首にも小野篁の歌があります。また、政務に関する能力も際立っており、朝廷では重要な役職に就きその才能を遺憾なく発揮していました。しかし、どうもずけずけとものを言う人であったらしく、嵯峨天皇を激怒させ一時は島流しの憂き目にあったこともありました。それでも、復職して朝廷では要職に就いていたのでした。二小野篁は、六尺を優に超す体格とぎょろりとした目つきから、まるで地獄からきたようだと揶揄されることもありました。あるとき、藤原良相(よしみ)が病気をしました...第265回夢語り小説工房作品「七体目の地蔵菩薩」
夢語り小説工房作品再掲「思い出は遠きにありて」作大山哲生私は溝田弘。私が高校三年の時の思い出を語ろう。私は、京都の鴨川高校に通っていた。鴨川高校は、京都の真ん中にあり、敷地のなかに歴史的な史跡や石碑がある。高校生の時はそういうものにはまるで関心がなかったが、今となってみると大変貴重なものだったなとわかる。一私は三年三組。私のクラスは、他のクラスの男子からはうらやましがられていた。担任がいいとか、学業の成績が優れているとかそういうことではない。私のクラスは魅力的な女子が多いのである。まず北村さん。彼女は学年のマドンナと言われている。背がすらりと高く小顔である。目が大きく鼻筋が通っている。髪はボーイッシュに短く切っている。私から見ると同じ学年とは思えず、姉のような気さえするのであった。お高くとまることもなく、私のよ...夢語り小説工房作品「思い出は遠きにありて」
夢語り小説工房作品再掲「丹波の風」作大山哲生一吉川六郎は峠山中学の校長であった。吉川は疲れ果てていた。四月に起こったいじめ事案がなかなか解決しないのだ。このいじめ事案は数人の男子が一人の男子をいじめていたというものであった。発生したのは二年三組。担任は新採用二年目の男性教諭であった。いじめであったというだけで大きなことであるのに、事後の担任の対応がよくなかったのでさらにこじれた。被害者、加害者の保護者が連日のように学校に押し寄せ、担任と吉川に詰め寄った。そしてこの件を聞いた市会議員までが来校し吉川に説明を求めた。保護者も議員も夜に学校に来て二時間は話をするから吉川が家に帰るのは十一時をすぎる。これが二ヶ月近く続き、すでに梅雨と呼ばれる季節になっていた。教育委員会は文書による報告を逐一求め、一刻も早く収束させるよ...夢語り小説工房作品「丹波の風」
第264回夢語り小説工房作品「療養先にて」作大山哲生私は、ソファに腰掛けて窓の外を見ていた。広い庭の向こうに青い峯が続く。私は、とある旅館の一室からガラス窓越しに景色を見ているのだった。五月、新緑が美しい。旅館に泊まるというのは、普通は旅行をするときである。だから、昼間は観光地を訪れたり次の場所に移動するから、昼間に旅館にいることはない。私は旅行に来たのではなかった。医者から療養を命ぜられたのである。身も心も休めなさいと。一私の名前は近恵一之介(このえいちのすけ)。私の苗字は読みが有名な公家と同じなので、「あの近衛さんの親戚ですか」とよく聞かれる。だから私は名刺を出してから名乗ることにしている。私は京都の南部にある中学校の校長である。定年まであと四年あるが、この四年を果てしなく遠く感じていた。学校改革の心配より...第264回夢語り小説工房作品「療養先にて」
第263回夢語り小説工房作品「からたちの木よ、永遠に」作大山哲生一今から六十数年前のことである。現在、京都伏見深草の塚本町には龍谷大学があるが、六十数年前その場所は白壁の巨大な兵舎がいくつも建ち並ぶ米軍の駐留基地であった。その前の南北に延びる道路は、今も昔も師団街道と呼ばれている。昔、この地に陸軍第十六師団があったことから、この地名が残っている。そして十六師団の兵舎はと言えば、茶色い板壁でできており、駐留軍基地の隣にあった。私はその兵舎に住んでいた。兵舎は府営住宅で家賃は月に五十円であった。兵舎の師団街道沿いには、からたちの木が植えられている。私は、子ども心にからたちの鋭いとげがこわく、遊べない木だと思っていた。兵舎は昔の木造校舎を二回りほど巨大化したもので、南北に長く百メートルを越す大きさであった。二階建ての...第263回夢語り小説工房作品「からたちの木よ、永遠に」
「川西バンド」作大山哲生私の名は今泉学。京都の鴨川高校の出身である。一私が高校二年の時のことであった。私のクラスに川西誠がいた。川西は、自称「川西バンド」のリーダーなのである。高校に入ってから、バンド仲間を探して、川西を入れて四人編成のバンドを作った。練習は土曜日の午後で場所は学校である。別館と呼ばれた校舎の二階に図書室がある。図書室の手前にはけっこう広い踊り場のようなところがあり、掃除用具などが置かれている。川西らは、その踊り場にドラムセットやアンプ・ギターなどを置いていた。鴨川高校は校区内に多くの伝統芸能の師範などが多く、一時エレキバンドが校内で問題になったときに、師範などが学校に申し入れをしたという。「京都は過去に様々な文化を受け入れ育ててきたところだ、エレキバンドも立派な文化だから好きにやらせてや...夢語り小説工房作品「川西バンド」
「歌姫」作大山哲生昭和四十二年。鴨川高校。今から五十年前の話である。私は、山瀬和義。当時は鴨川高校の三年生だった。私は、中学の時にラジオ作りに目覚めて以来電気工作を趣味としてきた。高校では、入学するや迷うことなく無線部に入った。一無線部員は、男子ばかりの七人。三年生が四人で二年生が三人である。無線部は、どことも同じだと思うが、鴨川高校の無線部も集まってはだべるばかりである。技術的な話も出るが、歌手の話になると一段と盛り上がる。当時の芸能界を席巻していたのが、二十歳になったばかりの花咲マイである。パンチの効いた歌唱力に加えてダンスも踊れると言うので、歌姫ともてはやされ、テレビ番組には引っ張りだこであった。明星などの芸能雑誌の表紙を飾ったこともあった。ある日の午後、無線部の部室に七人全員が集まっておしゃべりに...夢語り小説工房作品「歌姫」