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中国語気まぐれブログ https://blog.goo.ne.jp/inghosono/

中国語を通じ、中国の文化、歴史、生活などをお伝えしたいと思います。内容は筆者の気まぐれ、興味を持った内容を取り上げていきます。

日頃中国語に接する中で、気になったこと、表現力アップに役立ちそうな内容を紹介していきます。

いながさとし
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2010/06/24

  • 北京史(八) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(5)

    房山雲居寺の遼代の塔(北塔)の周囲に立つ4基の唐代小塔北京市房山区大石窩鎮水頭村雲居寺第三節隋唐五代期の幽州地区の都市と住民(続き)幽州経済の発展唐代、幽州地区の土地はより一層開墾され、農業に発展が見られた。永徽年間(西暦650‐655年)、幽州の農民は盧溝水を引き、稲田数千頃(けい。100畝(ほ。ムー)が1頃、1頃は6.6667公頃(ヘクタール)に当り、66667㎡に等しい)を開き、百姓はその豊かな産量を頼みにした。しかし、幽州は隋や唐にとり北方の軍事の拠点であり、常に大量の軍隊が駐屯し、ただ当地で産する糧食に頼るのでは供給量が足らなかった。隋末、「倉粟盈積」というのは、軍糧を外地から運んで蓄えたことを言うのである。貞観の時、幽州には常に平倉が設けられ、凶作の年に救済したり、種もみを貸すのに用いられた。...北京史(八)第三章秦漢から五代に至る時期の北京(5)

  • 北京史(七) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(4)

    隋大運河永済渠第三節隋唐五代期の幽州地区の都市と住民今の北京地区は、隋代には当時の幽州の大部分の地域を含んでいた。唐代には当時の幽州の大部分、檀州(だんしゅう)の全て(今の密雲、懐柔、平谷県境)と嬀州(きしゅう)東部(今の延慶県境)地区であった。隋の煬帝の大業三年(西暦607年)、幽州は涿郡に改称され、唐初に郡が州に改められ、再び幽州と称した。唐の玄宗の天宝の時、一度範陽郡に改称されたが、以後また幽州に改められた。幽州の治所は薊城に設けられ、城址は北魏と同じで、ずっと五代まで変わらなかった。隋代の涿郡の戸数は8万4千戸余りに達した。隋末の動乱を経て、唐初の幽州には2万戸余りが残り、檀州には1700戸しかなかった。玄宗の天宝年間(西暦742‐755年)には幽州の人口は6万7千戸、37万人にまで増加した。檀州...北京史(七)第三章秦漢から五代に至る時期の北京(4)

  • 北京史(六) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(3)

    魏の嘉平2年(250年)、薊城の西北で㶟河(るいが:今の永定河)の水を引き、戻陵堰を築いた二節魏晋十六国北朝時代の薊城薊城の政治状況と薊城の住民黄巾蜂起軍の主力が鎮圧され、広陽の黄巾も薊城から退出させられた。地主階級が元々持っていた私的な武装軍は、黄巾鎮圧の過程で大きく増強された。州や郡の官吏も次々軍隊入隊者を募集し、勢力を拡充した。東漢以来封建経済の発展がもたらした社会の分裂は益々明確になった。農民軍の再蜂起を防止するため、州や郡をコントロールし、自らの存亡の危機から救うため、東漢王朝はいくつかの重要な地区の州刺史を州牧に改め、宗室や名望家出身の官吏を選んで任命し、彼らに一州の軍政大権を管掌させた。漢の宗室出身の劉虞(りゅうぐ)は幽州牧に任じられ、西暦189年(漢中平六年)薊城に着任した。一年後、董卓の...北京史(六)第三章秦漢から五代に至る時期の北京(3)

  • 北京史(五) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(2)

    東漢荘園明器・陶庭院西漢時代の燕国(続き)北京地区の貧富の差は日増しにひどくなった。大商人や富豪地主の多くの一般の人々に対する搾取や圧迫はたいへん残酷なものだった。『漢書・酷吏列伝・厳延年伝』によれば、涿郡の「大姓(名門)の西高氏、東高氏は、郡吏以下皆これを恐れ避け、敢えてこれと触れようとせず、皆曰く「寧ろ二千石を負うても、豪なる大家を負わず。」賓客は放って盗賊となる。発すればすぐに高氏に入り、吏は敢えて追わず。次第に道路は弓を引き刀を抜き、その後敢えて行く。その乱れることかくの如し。」西漢後期、北京地区の土地は併呑され搾取され、圧迫は一層ひどくなった。早くも武帝の時期、北京地区の階級矛盾と階級闘争は既にたいへん先鋭化していた。『漢書・酷吏列伝・咸宣伝』によれば、「吏民はますます犯罪を軽視し、盗賊が増えた...北京史(五)第三章秦漢から五代に至る時期の北京(2)

  • 北京史(四) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(1)

    北京考古遺跡博物館(大葆台西漢墓遺跡)北京市豊台区黄土崗郷第一節秦漢時代の北京地区秦代の広陽地区秦は紀元前222年(秦王政の二十五年)燕を滅ぼし、翌年軍を指揮して南下し、斉を滅ぼし、中国を統一した。秦は依然、咸陽を国都とし、専制主義の中央集権の封建国家を建立した。地方行政は、郡県両級の制度を採用した。旧燕国地区は、北側の行政区画は基本的に元の燕の制度を踏襲した。すなわち、長城線に沿い、西から東へ、従来通り上谷(沮陽(そよう)を管轄。今の河北省懐来県大古城)、漁陽(漁陽を管轄。今の北京市懐柔県梨園庄)、右北平(無終を管轄。今の天津市薊県)、遼西(陽楽を管轄。今の遼寧義県)、遼東(襄平を管轄。今の遼寧遼陽)の五郡を置いた。元の燕国の都城、薊とそれ以南の地区から燕の下都、武陽(今の河北易県)に至る一帯には、新た...北京史(四)第三章秦漢から五代に至る時期の北京(1)

  • 北京史(三) 第二章 夏商周時代の北京(2)

    (写真)北京考古遺跡博物館(瑠璃河遺跡分館)北京市房山区琉璃河董家林村燕国の都城史書の記載によれば、西周の初年、燕の召公の封地は「燕」或いは「北燕」と呼ばれた。地処は今の淶水県一帯の古北伯領地で、燕の召公の封地以内も含まれていた。周の武王は褒賞として帝堯の後代(子孫。『史記』では帝堯の後、『楽記』では黄帝の後とする)を薊に封じ、しばらくするとまた燕の領地に帰することとなった。史書では周初の燕国は「地は燕山の野に在り」、すなわち今日の燕山のラインの南を指し、華北平原の北端、北京市の周囲である。北京地区の最古の都邑、「幽都」は集落の名称で、原始的な村落から発展していった。西周の時代、燕の都城は今の房山県瑠璃河鎮東側の董家林村周囲に位置し、これより北魏時代まで、ここは「聖聚」(聖なる町)と称された。古聖水(今の...北京史(三)第二章夏商周時代の北京(2)

  • 北京史(一) 第一章 太古の北京

    見出し:三羊銅罍(らい)、平谷県劉家河出土第一節夏商時代の北京地区の青銅器文明原始社会から奴隷社会までの間には、相当長い過渡期の時代がある。原始氏族社会制の晩期、私有制、階級は既に萌芽し、奴隷制確立後も長い間、原始氏族社会の名残は様々な形で残された。およそ紀元前2千年代の初期、北京地区は既に歴史に沿って進化し、原始社会は次第に奴隷制社会に移り変わりつつあった。伝説中の夏の時代、商族の祖先、亥は曾て牛車に乗り、北京以南の易水近傍で牛や羊を放牧し、各部落の間で売買を行った。有易部落は亥を殺し、亥の牛車と牛、羊を奪った。後に亥の兄弟の恒の子供の上甲微が亥の敵を打ち、有易部落を打ち負かした。この話は多くの古書の中に記載がある。これらの商族の祖先の名前も、商代の甲骨卜辞の中に見られる。龍山文化(山東省東部の章丘県龍...北京史(一)第一章太古の北京

  • 北京史 第一章 太古の北京

    これからご紹介するのは、北京出版社より、1985年8月に初版が刊行された、北京大学歴史系『北京史』編写組による、『北京史』、すなわち北京の歴史です。中国史の中で、北京地区の歴史にフォーカスします。第一節北京人(北京原人)とその文化おおよそ五十万年前、北京房山の周口店地区(北京市街地から西南へ約50Km)で、原始の人類が働き、生息していた。これが世の中でよく知られている「北京人」(北京原人)である。ちなみにこの章で言う「北京人」とは、「北京猿人」、すなわち北京原人のことです。北京人は周口店龍骨山北斜面の洞窟の中に居住し、そこには彼らの骸骨の化石、使っていた工具、火を用いた痕跡と大量の哺乳動物の化石が残されていた。これは人類の起源の謎を紐解く歴史の宝庫である。周口店龍骨山遺跡人類の誕生にはおよそ200万年あま...北京史第一章太古の北京

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