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中国語気まぐれブログ https://blog.goo.ne.jp/inghosono/

中国語を通じ、中国の文化、歴史、生活などをお伝えしたいと思います。内容は筆者の気まぐれ、興味を持った内容を取り上げていきます。

日頃中国語に接する中で、気になったこと、表現力アップに役立ちそうな内容を紹介していきます。

いながさとし
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2010/06/24

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  • 頤和園史話(5)

    頤和園史話(5)

    万寿山周辺、昆明湖の景観昆明湖の万寿山の前山に面して、東宮門内の宮殿区とは異なる形式の一組の建物群がある。ここは清代の最高統治者が盛大な典礼を行い、神に向かい仏を拝む場所であったので、殿宇は壮麗で、高閣が空高く聳え、更に石の壁が切り立ち、勢いが荘厳で、設計上、園全体の要害の高地で、園内で最も雄壮で豪華な建築群である。ここは昆明湖畔の雲輝玉宇牌坊から、順に排雲門、排雲殿、徳輝殿、佛香閣、更に山頂の智慧海まで、一本の明らかな中軸線を構成している。この中軸線の中部にある排雲殿は、慈禧が誕生日を過ごした時に、皇帝と群臣のお祝いを受けた場所で、またこの建築群の中で最も堂々とした殿堂である。その前身は、清漪園時代に乾隆が彼の母親の長寿祝いに建てた大報恩延寿寺の大雄宝殿で、1861年英仏連合軍の砲火で破壊され、1887...頤和園史話(5)

  • 頤和園史話(4)

    頤和園史話(4)

    頤和園十七孔橋四、美しい頤和園頤和園は美しい。その美は、自然の山、自然の水だけにあるのではなく、山間や水面にちりばめられた、不揃いで、様々な形をした人工の建築群にあり、自然の景観と芸術的な建築の両者が高度に完璧に調和し統一しているところにある。ここの建造物は、中国の古典庭園建築芸術が新たな高度なレベルに到達したことを示している。中国古代の造園芸術は、2千年以上の悠久の歴史を備えている。早くも紀元前11世紀の西周の時代、周の文王は山水に樹木、禽獣、魚、虫を擁する大型の宮廷庭園を造営した。史書では「霊沼」、「霊囿(れいゆう)」と称した。中国古代の最初の詩歌集『詩経』の中で、周文王の宮苑の中で、麀鹿(メス鹿)が出没し、鶴が飛び魚が躍る活き活きした景色を詳細に描述した。秦漢時代になり、秦の始皇帝と漢の武帝が相次い...頤和園史話(4)

  • 頤和園史話(3)

    頤和園史話(3)

    慈禧在頤和園仁寿殿前三、園外の情勢(風雲)と園内での歳月(春秋)頤和園の完成後、西太后慈禧は毎年大部分の時間を園内に居住して過ごすようになった。一般には旧暦4月に頤和園に入り、10月に誕生日を過ごすと、紫禁城の宮廷に戻った。彼女は頤和園に来る度に、大勢の女官を随員として連れ、前方では道を開けるよう叫び、後ろでは彼女を取り囲んで守った。途中通過したところでは、「水を街に撒き、黄土を道に敷き」、当地の役人が跪いて出迎えた。慈禧は頤和園内で湖や山で遊び、芝居や音楽を楽しみ、6、70歳の老婆は、時には観音菩薩の舞台衣装を引っ掛けて写真を撮って楽しんだ。しかし、もしこの権威欲の亡者が一心にここで「頤養天年」(身体を休め、天寿を全うし)、国事を問わないかと言うと、それは大間違いだった。実際は、慈禧は頤和園で暮らしてい...頤和園史話(3)

  • 頤和園史話(2)

    頤和園史話(2)

    西太后慈禧二、西太后慈禧の「帰政」(政務の奉還)と頤和園の築造英仏侵略軍の焼き討ち、掠奪、破壊は、清漪園を二十数年間に亘り荒廃した状態にした。この期間、外国資本主義勢力は中国に軍事的な侵略を強めただけでなく、政治から経済までより一層の侵入と掠奪を行った。乾隆帝は曾て「天国上邦」(この世の天国)と自慢した封建大帝国は、この時代には『紅楼夢』で冷子興が形容する栄国府が、「架子虽没很倒、内囊却也尽上来了」(柱はまだ倒れていないが、中の棉は尽く出てきてしまっている)のと同様の状態であった。政治の危機、経済の逼迫は、清朝の統治者を一時的に園林の中の湖や塔の光景などに構っていられない状態にさせた。1873年(同治12年)、朝廷内には円明園修復の動議があったけれども、国庫が逼迫し、経費を準備するのが困難で、着工してしば...頤和園史話(2)

  • 頤和園史話(1)

    頤和園史話(1)

    頤和園全景中華書局出版社1984年発行の『名勝古跡史話』の中から、前回『避暑山荘史話』を日本語でご紹介しましたが、今回は『頤和園史話』をご紹介します。頤和園の歴史は、なんといっても、清朝末期に西太后が海軍の整備費用を流用して作られた皇室庭園として有名です。頤和園史話中国の著名な古典庭園(中国では普通「園林」と言う)、頤和園(いわえん)は、北京城(城壁で囲まれていた旧市街)の西約10キロの郊外にある。園内には、明るく澄み切った湖水、青々として秀麗な山々、極彩色に輝く殿宇、たいへん手の込んだあずまやや回廊がある。おだやかな風がのどかに吹きそよぐ春の日、或いは天高くさわやかな秋の日、頤和園の門前はいつも車や人の流れが途絶えることが無い。それは万寿山と昆明湖で形作られる美しい庭園の景色の一場面で、もはや首都北京の...頤和園史話(1)

  • 北京史(四十六)清代(1644-1840年)の北京(8)

    北京史(四十六)清代(1644-1840年)の北京(8)

    雍和宮打鬼第七節風俗習慣と日常生活上述の経済、政治、文化の発展と互いに関連するのは、風俗習慣と日常生活の変化である。風俗習慣は一般に古い伝統を備えており、清初の北京地区の風俗習慣は基本的に明代のものを踏襲していた。しかし北京地区の経済発展は、満州族の風俗が浸透し、またその他の面での影響もあり、これらの風俗習慣は、若干の事情によって多少の変化が発生せざるを得ず、且ついくらか新たな内容をも加えた。日常生活は経済生活と密接に関係し、この時代の日常生活は、各階級の経済生活情況を具体的に反映していた。風俗習慣清代、北京の風俗習慣の中で、節句(祭日)の内容が最も多彩であった。陰暦1月1日から、12月の最終日(30日、或いは29日)まで、1年間に数十の節句があった。その中で、いくつかの節句は明初の情況とほぼ同じだった。...北京史(四十六)清代(1644-1840年)の北京(8)

  • 北京史(四十五)清代(1644-1840年)の北京(7)

    北京史(四十五)清代(1644-1840年)の北京(7)

    第六節北京の園林と廟宇西苑清朝が北京を都に定めて後、城池(城壁と堀の意から都市のこと)と宮殿の規模は相変わらず明朝に基づき、ただ戦乱で破壊された部分にのみ補修を加え、城門や宮殿の名称も多少改変した。紫禁城の西の「太液池」は、中、南、北海と分けて呼んだ。ここは金、元以来の宮廷の御苑の景勝地であった。清朝前期に拡張され、これを西苑とした。西苑の中は、楼台(高楼)が聳え立ち、彫刻や装飾が精緻で美しく、大小の修築された物の数が合わせて百を数えた。そのうち中南海の部分がしばしば「臣工を引見、応対し、重要な事務を総理し、王公、卿士を饗宴したり、或いは外潘を接見、朝見し、遠征軍の指揮官の帰還をねぎらい、武官が技を競う」(『日下旧聞考』巻21)ために使われ、「勤政殿」、「灜台」などがあった。康熙、乾隆の時代には、しばしば...北京史(四十五)清代(1644-1840年)の北京(7)

  • 北京史(四十四)清代(1644-1840年)の北京(6)

    北京史(四十四)清代(1644-1840年)の北京(6)

    万斯同第五節清前期の北京の学術と文芸活動北京の学者や文士北京は清朝の首都になり、全国各地の学者、文士がこの地に集まった。彼らはある者は科挙の試験に合格し、翰林院に入った。ある者は或いは招聘を受け、或いは遊学のため、北京に来た。こうした学者たちは互いに親しくなり、議論を戦わせ、北京の文化的繁栄や学術の発展に重要な影響をもたらせた。康熙帝は三藩の平定(1681年。清朝の建国を助け、各地に独立政権となって藩王と称された漢人武将、雲南の呉三桂(平西王)、広東の尚可喜(平南王)、福建の耿継茂(靖南王)を滅ぼした)後、学問を重んじ、学識のある名士が争って都、北京に集まってきた。平民階級で、徐元文の招聘に応じて北京で主に『明史』を編纂した万斯同(ばんしどう)は、毎回講義の度に、翰林、部郎、処士が4、50人を率いて、車座...北京史(四十四)清代(1644-1840年)の北京(6)

  • 北京史(四十三)清代(1644-1840年)の北京(5)

    北京史(四十三)清代(1644-1840年)の北京(5)

    林清天理教の蜂起、林清の紫禁城攻撃1813年(嘉慶18年)、林清の率いる天理教徒が紫禁城を攻撃したのは、歴史上前例のない反乱活動であった。それは黄巣や李自成のように数十万の農民蜂起軍を率いて京城を攻撃したのではなく、百人、二百人の教徒が紫禁城に乱入し、宮殿の守備兵らと死闘を展開した。天理教は白蓮教の一派で、その組織は八卦に基づき編成され、それゆえ八卦教とも呼ばれる。天理教の派別は様々で、北京で組織されたものの多くは「龍華会」に属し、その中には更に紅陽派と白陽派の区分があった。この秘密の宗教教団は、北京、直隷、河南、山東、山西一帯で活動していた。彼らは「無生老母」を信奉し、「真空家郷、無生父母」の八字の口訣(信者に覚えやすいように口調よくまとめた語句)を伝授した。天理教のこの組織は、最初から清朝の政治権力を...北京史(四十三)清代(1644-1840年)の北京(5)

  • 北京史(四十二)清代(1644-1840年)の北京(4)

    北京史(四十二)清代(1644-1840年)の北京(4)

    順天府衙署第四節清朝の政治体制と民衆の蜂起清朝の北京での地方行政組織清代の北京の地方行政組織は、互いに独立した三つの部分で成り立っていた。すなわち、民政を管理する順天府、主に警備の責任を負う九門提督、治安の掌握を主とする五城御史である。順天府清は明に倣い、依然順天府を北京に置いた。衙署(役所)は地安門外にあり、鼓楼の東、すなわち明代の順天府旧址であった。大興、宛平の両県を管轄した。順天府尹(知事)は正三品官(一般の知府は従四品)であった。府尹の下属官には府丞、治中、通判、経歴などがあった。順天府の職権は「京畿治理」(北京首都圏の治安維持)、「刑名銭谷」(刑事訴訟、地租や税金の徴収)などの事務の掌握であった。清の統治者は毎月1、15日に、全国各州、府、県は、郷約(郷里で皆が遵守すべき規約)により人々全般に康...北京史(四十二)清代(1644-1840年)の北京(4)

  • 北京史(四十一)清代(1644-1840年)の北京(3)

    北京史(四十一)清代(1644-1840年)の北京(3)

    清乾隆景泰藍塔(乾隆時代の七宝焼の塔)官営手工業の衰退と民営工房の発達農業の回復と同時に、手工業も康熙中期以降に次第に盛んになり、乾隆初期にはこの時期のピークを迎えた。この時、手工業は相変わらず官営と民営のふたつに分かれていた。官営手工業は日増しに衰退し、皇室や王公貴族が必要とする手工業品、日用品は、より多くが民営の工房や店舗に行って購入する必要があった、或いはこれらの民営工房に代理で責任を持って制作させた。民営の手工業は明代よりも数量が増加した。官営手工業は康熙以降、内務府、工部などの役所に属していた。これらの衰退は、この時代の生産規模が明代に及ばないことを表していた。清の内務府には、明の内監が擁していたほど雑多で多くの官営の手工業部門は無かった。内務府は北京で主に内織染局(皇室、宮廷御用の絹織物の染色...北京史(四十一)清代(1644-1840年)の北京(3)

  • 北京史(四十)清代(1644-1840年)の北京(2)

    北京史(四十)清代(1644-1840年)の北京(2)

    清朝廷、剃髪令を発し、漢人に辮髪を強制清初、統治者が踏みにじった手工業と商業土地の囲い込みは漢族の農民を破産、逃亡させ、北京地区の農業生産を破壊しただけでなく、北京城内の手工業や商業に損害を与えた。城内の多くの漢族の手工業者や商人は、住居が囲い込みで占拠され、身を安んじるところが無く、またしばしば満州貴族やその走狗たちの抑圧に遭った。満州貴族は奴僕をそそのかして城外に行かせ、公然と北京に交易に来る商人たちから掠奪させ、一度は販路が存続の危機を迎えた。大通りには「人市」が出現し、一部の満州貴族は自分がさらってきた漢族の男女を、少しもはばからずに「人市」に引き出して売り出した。こうした情況下、私営の手工業や商業は急激に衰退した。官営の手工業は、清朝廷と満州貴族の需要により、まだ明代から残されてきた一部を維持す...北京史(四十)清代(1644-1840年)の北京(2)

  • 北京史(三十九)清代(1644-1840年)の北京(1)

    北京史(三十九)清代(1644-1840年)の北京(1)

    清摂政王ドルゴン第一節北京、清朝の都城1644年(大顺永昌元年)4月30日早朝、李自成は農民軍を率いて北京から退却した。城中に留まっていた明の御史曹溶が直ちに逃げ出し、自らを西城巡視に任じ、崇禎帝の位牌を祭る都城隍廟を設立した。彼は他の明朝の官僚と一緒に臨時管理機構を立ち上げ、まだ北京城から退却していなかった農民軍兵士を虐殺した。5月3日、清の摂政王ドルゴン(多尔衮)が清の兵士を統率して北京に入城し、多くの明の官僚が清に投降した。これと同時に、三河県(北京市と天津市の間の河北省の飛び地)では人々の髪を剃る(薙髪(ちはつ)。漢族に辮髪を強制すること)のに反対する抗清闘争が爆発した。漢民族の官僚地主を籠絡するため、ドルゴンは、およそ明朝の在京の内閣、六部、都察院などの役所の官吏は全て元の役人と満州族の役人が一...北京史(三十九)清代(1644-1840年)の北京(1)

  • 北京史(三十八) 第六章 明代の北京(16)

    北京史(三十八) 第六章 明代の北京(16)

    八達嶺長城長城と居庸関万里の長城の修築は戦国時代に始まった。当時、各国は分裂して雄を称し、強が弱を凌駕(りょうが)し、衆が寡を暴き、領土兼併の戦争が已まず、このため互いに防御を行うための土木事業として、長城が各国の辺境に出現した。斉、楚、魏、燕、趙、秦などの大国が長城を築いただけでなく、たとえ小国の中山国でさえも長城を築いた。これらの長城は、各国がお互いの防御のために用いただけでなく、一部は匈奴の侵入を防御するためにも用いられた。これは燕、趙、秦北部の長城の場合である。この当時、燕、趙、秦の北部は匈奴と境界を接していて、しばしば匈奴の騎馬隊の侵入、攪乱を受け、たいへん苦悩していた。このため北部に長城を修築せざるを得ず、それによって防御していた。紀元前221年秦の始皇帝が中国全土を統一し、その他の長城は悉く...北京史(三十八)第六章明代の北京(16)

  • 北京史(三十七) 第六章 明代の北京(15)

    北京史(三十七) 第六章 明代の北京(15)

    十三陵北京昌平県北天寿山の麓に、明朝の13人の皇帝の墳墓が分布し、十三陵と称する。明代には16人の皇帝がいたが、開国の皇帝、朱元璋が南京孝陵に葬られ、建文帝朱允炆(しゅいんぶん)が「靖難之役」の中で亡くなった場所が分からず、景泰帝朱祁钰(しゅきぎょく)は帝号を削られ、死後は王礼に依って北京西郊の金山に葬られた。それ以外の13人の皇帝は、均しく昌平県北天寿山の麓に葬られた。十三陵とは、長陵、献陵、景陵、裕陵、茂陵、泰陵、康陵、永陵、昭陵、定陵、慶陵、徳陵、思陵である。明の成祖朱棣(しゅてい)は皇位を取得して以後、鋭意北京に遷都し、1407年(永楽5年)7月皇后徐氏が亡くなり、人を遣って北京で陵地を選定するのに、諸山を遍歴させ、「吉壌」(風水の良い墓地)を捜した。最後に「地理術人」(風水師)廖均卿(りょうきん...北京史(三十七)第六章明代の北京(15)

  • 避暑山荘(その7)奇峰異石十大景

    避暑山荘(その7)奇峰異石十大景

    磬錘峰(けいすいほう)有名な承徳十大景は、避暑山荘と外八廟の周囲に広がり、あるものは近く武烈河のほとりにあり、あるものは遠く十数里外にあり、均しく天然に形成された奇峰異石であり、多種多様な姿をしている。人々はそれぞれ形状に基づき、様々なイメージの名前を付けた。例えば、磬錘峰、蛤蟆石、鶏冠山、僧冠山、羅漢山、元宝山、双塔山、月牙山、饅頭山などである。避暑山荘から東を望むと、先ず目に映るのが、磬錘峰(けいすいほう)である。これは上部が太くて下部が尖っていて、形が棒槌(きぬた)のように倒立した奇峰で、俗に棒槌山と呼ばれる。この峰は崖のほとりにきわどく立ち、峰の頂には背の低い樹木が群生し、峰の腰部の岩の隙間には古い桑の樹が生えている。伝説ではこの桑の実(桑葚)はたいへん甘美で、食べると仙人になれる。この峰の最も古...避暑山荘(その7)奇峰異石十大景

  • 避暑山荘(その6)外八廟(2)

    避暑山荘(その6)外八廟(2)

    普陀宗乗之廟(三)普陀宗乗之廟と土爾扈特(トルグート)部の帰順普陀宗乗之廟は避暑山荘北側の獅子溝に位置し、土地は22万平方メートルを占め、外八廟の中で最大規模の寺院である。この寺院は乾隆が自分の60歳の誕生日と母親の80歳の誕生日を祝うため、命令を出してラサのポタラ宮に似せた様式に建造させたものである。乾隆は誕生祝いの際、モンゴル、青海、西北各地の少数民族の上層の人物が熱河にお祝いに来ることを考慮し、来訪者の大部分がラマ教の信徒であるので、ラマ教の聖地、ポタラ宮に似せてこの廟を建設した。普陀宗乗はすなわちチベット語のポタラ(布達拉)の漢訳である。乾隆の詩の中でいわゆる「普陀はもと遐(とお)きの人を撫(なぐさ)め、神道は誠にこれを相する有るを看る」(『普陀宗乗廟即事』)というのは、「神道教えを設く」を以て辺...避暑山荘(その6)外八廟(2)

  • 避暑山荘(その5)外八廟(1)

    避暑山荘(その5)外八廟(1)

    承徳外八廟・普寧寺避暑山荘の建設が始まってから、康熙帝、乾隆帝は山荘の周囲に次々と多くの寺院を建立した。1713年(康熙52年)康熙帝玄燁(げんよう)が六十歳の誕生日を迎えた時、モンゴルの王公たちが熱河に来て朝見し、うやうやしく礼拝しやすいように、溥仁寺、溥善寺を建立した。これは山荘の周囲に最初に建てられた寺院で、規模が小さく、乾隆帝在位時に建てられた寺院には遠く及ばなかった。乾隆帝は費用と大量の人力物力を惜しまず、避暑山荘の東側と北側の山麓に、ひとつ、またひとつと寺院を造営した。1755年(乾隆20年)から始まり、およそ三から五年毎に一寺建立した。1755年に普寧寺を建立、1760年に普佑寺を建立、1764年に安遠廟を建立、1766年に普楽寺を建立した。1767年2月普陀宗乗之廟の建設に着手、1771年...避暑山荘(その5)外八廟(1)

  • 避暑山荘(その4)平原地区、山岳地区

    避暑山荘(その4)平原地区、山岳地区

    永佑寺舎利塔湖地区の北側には平原地区が広がる。東部平原は、熱河泉の北に位置し、元々春好軒、嘉樹軒、永佑寺など幾組かの建物があった。永佑寺内には御容楼があり、曾ては康熙と乾隆の肖像画が安置されていたが、とっくに破壊されてしまった。ただ永佑寺の後ろには舎利塔が尚存続し、この塔は南京の報恩寺塔を真似て作られ、十層の八角形で高さは60メートル余り、頗る壮観である。中部平原は、万樹園と試馬埭(しまたい)から成り、土地の広さは数千畝ある。湖のほとりには甫田叢樾、濠濮間想、水流雲在、鶯囀喬木の四亭があり、亭の上では湖や山の景色を見渡すことができる。四亭以北は、すなわち万樹園と試馬埭である。ここには日差しを遮る木々の生い茂った森林、青々とした草が敷物のような草原がある。試馬埭曾ては万樹園の中は自由に遊びまわる鹿の群れがお...避暑山荘(その4)平原地区、山岳地区

  • 北京史(三十六) 第六章 明代の北京(14)

    北京史(三十六) 第六章 明代の北京(14)

    慈寿寺塔(明万暦6年(1578年)建立)第五節明代の北京の文化寺院と園林明代、北京の人々は、北京城の郊外に多くの大小の寺院を建設した。明代の北京の寺院は全部で千か所以上あり、宛平県の1県だけでも570ヶ所あった。いくつかの寺院は、今日でも完全な状態で残っている。(沈榜『宛署雑記』巻言、闕名『燕京雑記』)これらの寺院には、道教、仏教、ラマ教の寺院や、回教の清真寺が含まれていた。寺院の建物には、漢族、蒙古族、チベット族、回族、ウイグル族等、各民族の独特な芸術やスタイルが表され、同時にまたベトナム、朝鮮、インド、ネパールを含めた東方の各国の民族の芸術スタイルが混ぜ合わされていた。北京の安定門内、東四、牛街、錦什坊街の回教四大清真寺は、牛街清真寺が明朝期に再建されたのを除き、その他は何れも明代の創建である。数多く...北京史(三十六)第六章明代の北京(14)

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