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  • インキネン/日本フィル

    インキネンの日本フィル首席指揮者としての最後の東京定期。曲目はシベリウスの「クレルヴォ交響曲」。記念碑的な作品によるこれ以上ない舞台設定だ。「クレルヴォ交響曲」は何度か聴いたことがある。ハンヌ・リントゥ指揮の都響、パーヴォ・ヤルヴィ指揮のN響が記憶に新しいが、若いころには渡邉暁雄指揮の都響も聴いた記憶がある。それぞれ感銘を受けたが、それらのどれとくらべても、今回のインキネン指揮の日本フィルは感銘深い演奏だった。羽毛のような柔らかい音からエッジのきいた音まで、音の多彩さもさることながら、なにより印象的なことは、インキネンの「クレルヴォ交響曲」という巨大な世界を真正面から受け止める胆力だ。豪胆といってもいい。明るく爽やかなイメージのあるインキネンだが、腹の座り具合は並大抵ではない。「クレルヴォ交響曲」の圧力を...インキネン/日本フィル

  • パナソニック汐留美術館「ルオー展」

    ルオー展が開かれている。パナソニック汐留美術館の所蔵品を主体に、パリのポンピドゥー・センターや国内の美術館の作品を加えた構成だ。美術学校を出たころの娼婦や道化師を描いた作品から、2度の大戦をへて、晩年の輝くばかりの色彩の作品まで、ルオー(1871‐1958)の歩みを辿っている。本展のHP↓に「かわいい魔術使いの女」(1947年)の画像が載っている。赤い衣装をつけたサーカスの魔術使いが、アーチの前に立つ。アーチの向こうにはリンゴのような果物、建物の中に立つ人物(わたしには聖像のように見える)、太陽(または月)などがある。ルオー晩年の作品だ。会場に掲示された解説によると、第二次世界大戦をはさんで紆余曲折があった末に(細かい経緯は省く)、現在はパリのポンピドゥー・センターが所蔵する作品だ。本作品の1939年ころ...パナソニック汐留美術館「ルオー展」

  • 原田慶太楼/日本フィル&ソッリマ

    原田慶太楼指揮日本フィルの横浜定期はトラブル発生で、ライブならではの面白さだった。1曲目はドヴォルジャークのチェロ協奏曲だが、冒頭でファゴットの1番奏者の楽器にトラブルが起きた。奏者がしきりに楽器をいじっているが、直らない様子。奏者も慌てているが、それを見ているわたしも気が気でない。第1楽章が終わった時点で奏者が舞台裏に引っ込んだ。チェロ独奏はジョヴァンニ・ソッリマだった。ソッリマは客席を向き、オーケストラには背を向けているので、何が起きたかはわからない。原田慶太楼がそっと事情を伝えると、ソッリマは頷き、演奏の中断を埋めるかのように、抒情的な曲を弾き始めた。弾きながらオーケストラの弦楽パートにサインを送る。それに気づいた弦楽パートがハーモニーをつける。しみじみとした美しい曲だった。客席からは拍手が起きる。...原田慶太楼/日本フィル&ソッリマ

  • パーヴォ・ヤルヴィ/N響

    パーヴォ・ヤルヴィ指揮N響のリヒャルト・シュトラウス・プロ。バレエ音楽「ヨセフの伝説」から交響的断章と「アルプス交響曲」。2曲はほとんど同時期に書かれた。「ヨセフの伝説」は1912~1914年、「アルプス交響曲」は1911年~1915年。オペラでいうと、「ナクソス島のアリアドネ」と「影のない女」のあいだの時期だ。シュトラウスはその頃、もう何でも書けるようになった。「ヨセフの伝説」を聴くのは初めてだ。出だしの絢爛豪華な音楽は、シュトラウス節そのものだ。その後も甘くセンチメンタルな音楽が続く。手慣れた感じがしなくもない。実験精神は後退している。だが、手短にシュトラウスの音楽に浸りたいときには格好の曲だ。交響的断章はシュトラウス自身が最晩年に編曲したもの。初演は1947年。パーヴォ指揮のN響はシュトラウスの音楽...パーヴォ・ヤルヴィ/N響

  • ウルバンスキ/東響

    ウルバンスキ指揮東京交響楽団の定期。ウルバンスキを聴くのは初めてだ。1曲目はプロコフィエフのバレエ音楽「ロミオとジュリエット」から12曲が演奏された。ウルバンスキ自身が「ぶらあぼ」のインタビューで語っているが、ストリーを追って組み立てられている。演奏もバレエ音楽というよりは、シンフォニックな性格のものだった。全12曲の中で「タイボルトの死」を頂点に、そのダイナミックな演奏と、その他の曲での音を抑えた演奏との対比をつけていた。2曲目は1970年生まれのフランスの作曲家、ギョーム・コネッソンの「Heiterkeit」(晴れやかさ《静穏》)。オーケストラと合唱のための曲だ。ベートーヴェンの「第九」の前プロとして作曲された由。オーケストラは「第九」と同じ編成で書かれている。演奏時間は約11分。ウルバンスキに献呈さ...ウルバンスキ/東響

  • 坂本龍一、大江健三郎の逝去に思う

    坂本龍一が3月28日に亡くなった。多くの方が追悼の声をあげている。わたしも意外なほどダメージを受けた。なぜだろう。たぶん同学年だからだ。坂本龍一はわたしよりも1歳年下だが、早生まれなので、学年は同じだ。坂本龍一は都立新宿高校、わたしは都立小山台高校。わたしたちの学年は都立高校に学校群制度が導入された第1期生だ。もし学区が同じなら、同じ高校に学んだ可能性もある。当時は大学紛争が高校にも飛び火して、多くの高校紛争が起きた。坂本龍一も参加したようだ。わたしの高校でも生徒総会でストライキが提起されたが、不発に終わった。わたしはいままで坂本龍一の音楽とは縁がなかったが、2010年4月に佐渡裕指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏で「箏とオーケストラのための協奏曲」を聴いたことがある(箏独奏は沢井一惠)。そのときは、...坂本龍一、大江健三郎の逝去に思う

  • 山下一史/千葉響「ありがとうコンサート」

    先日、千葉交響楽団(以下「千葉響」)の「ありがとうコンサート」に行った。「ありがとう」の意味は3通りあるそうだ。一つ目は5弦のコントラバスの購入のためのクラウドファンディング成功への「ありがとう」。二つ目は4月から2年余りの大規模改修工事に入る千葉県文化会館への「ありがとう」。三つ目は聴衆の皆さんへの「ありがとう」。クラウドファンディングでは目標額を大きく上回る募金が集まったそうだ。当コンサートでは募金で購入した5弦のコントラバスのお披露目があった。ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」を例にとり、通常の4弦のコントラバスでは出ない音が、5弦のコントラバスでは出ることが実演で示された。またサン=サーンスの「動物の謝肉祭」の中の「象」が5弦のコントラバスと4弦のコントラバスの二重奏で演奏された。千葉県文化会館...山下一史/千葉響「ありがとうコンサート」

  • マナコルダ/読響

    アントネッロ・マナコルダAntonelloManacordaが読響を振った。マナコルダはイタリアのトリノ生まれ。クラウディオ・アバドが設立したマーラー室内管でコンサートマスターを務めた。指揮はヨルマ・パヌラに学んだ。詳細は省くが、本人のホームページによると、今後は4月にベルリン国立歌劇場、5月にバイエルン放送響、6月にウィーン国立歌劇場、7月にドレスデン国立歌劇場の予定が入っている。1曲目はハイドンの交響曲第49番「受難」。シュトルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)様式の短調の交響曲だ。楽章構成は、緩‐急‐緩‐急の4楽章。どの楽章も悲壮美にあふれた音楽だ。ハイドンの既成概念をこえるところがあり、黙って聴かせられたら、ハイドンとは思わないかもしれない。モーツァルトの第25番と第40番のト短調交響曲は、このあた...マナコルダ/読響

  • SOMPO美術館「ブルターニュの光と風」展

    「ブルターニュの光と風」展が始まった。フランス北西部の大西洋に突き出したブルターニュの小都市カンペール。そこの美術館の引越し展だ。全体は3章で構成されている。第1章は「ブルターニュの風景―豊饒な海と大地」。サロン(官展)の画家の作品が中心だ。サロンに反抗した印象派の画家たちの視点からは、保守的な作品に見えるかもしれない。でも、穏やかで品がある。個性を競った近代絵画を追って疲れた目には、ホッとするものがある。チラシ(↑)に使われた作品は、アルフレッド・ギユ(1844‐1926)の「さらば!」だ。漁船が難破して、息子が波にのまれる。父親が最後の口づけをする。ブルターニュ地方ではこのような事故は日常的にあったそうだ。わたしはチラシを見たときには、上半身裸の人物は女性だと思った。どのような状況かと思った。キャプシ...SOMPO美術館「ブルターニュの光と風」展

  • 大野和士/都響

    大野和士指揮都響のリゲティ&バルトーク・プログラム。1曲目はリゲティのピアノ練習曲集第1巻から第5曲「虹」をデンマークの作曲家・アブラハムセンが室内オーケストラ用に編曲したもの。チェレスタ、ハープ、ヴィブラフォンその他の打楽器の透明な音が美しいが、あっという間に終わる。アブラハムセンは2020年2月にパーヴォ・ヤルヴィ指揮N響でホルン協奏曲が演奏されたので、その名を記憶している。ホルン独奏はベルリン・フィルのシュテファン・ドールだった。ホルン協奏曲は1月にパーヴォ・ヤルヴィ指揮ベルリン・フィル、シュテファン・ドールの独奏で世界初演されたばかりだった。ほぼリアルタイムで日本でも演奏されることに興奮した。2曲目はリゲティのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏はコパチンスカヤ。これはもうコパチンスカヤの独壇場だ...大野和士/都響

  • 山岡重信さんを偲ぶ

    先日、ある偶然から、指揮者の山岡重信(以下「山岡さん」)が2022年6月20日に亡くなったことを知った。享年91歳。名前を見かけなくなってから久しい。どうしているのかと思っていた。91歳なら、天寿をまっとうされたのだろう。ご冥福を祈る。わたしは1971年4月に早稲田大学第一文学部に入った。そのときオーケストラに入ろうか、どうしようかと迷った。中学高校とブラスバンドをやってきたので、入りたい気持ちはやまやまだったが、オーケストラに入ると、オーケストラに明け暮れる毎日を過ごし、中学高校の二の舞になることは目に見えていた。文学をとるか、音楽をとるか。でも、やはりオーケストラに入りたい。そこである日、練習を見学に行った。そのとき指揮していたのが山岡さんだ。曲目はブラームスの交響曲第3番だった。さすがにプロの指揮者...山岡重信さんを偲ぶ

  • 佐藤俊介/東響

    東京シティ・フィルの定期演奏会が終わった後に、東京交響楽団の定期演奏会に行った。掛け持ちは苦手だが、どちらも振替ができなかったので、仕方がない。東京交響楽団の指揮者は佐藤俊介。古楽系のヴァイオリニスト・指揮者だ。プロフィールによると、いまはコンチェルト・ケルンのコンサートマスターとオランダ・バッハ協会の音楽監督・コンサートマスターを務めているそうだ。またアムステルダム音楽院古楽科教授でもある。どんどん進化するヨーロッパの古楽演奏の最前線に立つ人だ。1曲目はシュポア(1784‐1859)のヴァイオリン協奏曲第8番「劇唱の形式で」。もちろん佐藤俊介の弾き振りだ。強いアクセントでグイグイ弾く。それは古楽奏法から当然予想されることだが、加えて美音が印象的だ。約20分の演奏時間中、独奏ヴァイオリンがオペラのプリマド...佐藤俊介/東響

  • 高関健/東京シティ・フィル

    高関健指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。プログラムにショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」が組まれている。ロシアのウクライナ侵攻以降、ショスタコーヴィチのこの曲はチャイコフスキーの祝典序曲「1812年」とともに、演奏しにくい曲になっている。それをあえてやることに興味をひかれる。恒例の高関健のプレトークでは、この曲を演奏する思いが率直に語られた。まず個人的な思いとして、サンクトペテルブルク・フィルを2度振ったことがあり、また東京シティ・フィルを連れて「夕鶴」を上演したことがあるで、サンクトペテルブルク=レニングラードへの思いがあること。またショスタコーヴィチのこの曲をプログラムに組んだときは、ロシアのウクライナ侵攻が起きる前だったこと。しかしウクライナ侵攻が起きて、「正直、演奏するかどうか迷っ...高関健/東京シティ・フィル

  • B→C 加耒徹バリトン・リサイタル

    B→Cコンサートにバリトン歌手の加耒徹(かく・とおる)が出演した。加耒徹は2021年の東京二期会の「ルル」でシェーン博士役を好演した。B→Cコンサートでは10か国の言語を歌うというので、楽しみにしていた。まずバッハのカンタータ第203番「裏切り者なる愛よ」。バッハには珍しく、イタリア語のカンタータだ。そのせいなのかどうなのか、音楽と言葉がしっくりこない。松岡あさひの弾くピアノ伴奏は熱がこもっていた。次はカーゲル(1931‐2008)の「バベルの塔」から「ヘブライ語」「ポルトガル語」「ハンガリー語」「オランダ語」「日本語」の5曲。石川亮子氏のプログラムノーツによると、これは旧約聖書「創世記」第11章第5~7節(神が人間たちのバベルの塔の建設を怒り、言語をバラバラにした件)を歌詞とする18の言語による18のメ...B→C加耒徹バリトン・リサイタル

  • 藤岡幸夫/日本フィル

    藤岡幸夫指揮日本フィルの横浜定期。空席が目立つのは、プログラムに日本人の作品が組まれているからだろうか。だが、その作品が良かった。菅野祐悟のサクソフォン協奏曲「MysticForest」だ。この曲は2021年2月の初演のときに聴いた(サクソフォン独奏は今回と同じ須川展也。オーケストラは藤岡幸夫指揮東京シティ・フィル)。そのときはよくわからなかったが、今回は2度目とあって、どんな曲か、つかめた気がする。全3楽章からなる。プログラムに掲載された菅野祐悟のプログラムノートが、各楽章の性格を的確に語っているので(そのプログラムノートが初演のときにもあったかどうか、残念ながら記憶に残っていない)、一部を引用しながら、各楽章をたどってみよう。第1楽章は「桜は華々しく咲き誇り、そして一瞬で儚く散る。(以下略)」。桜の花...藤岡幸夫/日本フィル

  • 鈴木優人/読響

    鈴木優人が指揮する読響の定期演奏会。1曲目は読響創立60周年記念委嘱作品の鈴木優人の新作「THESIXTY」。60人のオーケストラのための“60”の数字にこだわった作品だ。全体は3つのセクションに分かれる。そのうちの第2のセクションがもっとも長い。独特の感覚の(その感覚をどういったらいいか。現代的で、明るく、軽い、しかし類似のものが見当たらない、一種名状しがたい感覚だ)音の重なりが延々と続く。そこに「YOMIURINIPPONSYMPHONYORCHESTRA」の30文字を音列化した「読響音列」が綴りこまれる。それにくらべると、第1のセクションはいわゆる現代音楽だ。一方、第3のセクションは調性音楽だが、あっという間に終わる。2曲目はイェルク・ヴィトマン(1973‐)のヴィオラ協奏曲。ヴィオラ独奏はアントワ...鈴木優人/読響

  • 「佐伯祐三」展

    「佐伯祐三」展が開催中だ。パリの抒情的な風景画で知られる佐伯祐三(1898‐1928)のわずか30年の人生、そのうちのパリ生活だけなら、わずか3年にすぎない、まるで生き急いだように見える人生と画業をたどることができる。佐伯祐三のパリ生活は2回に分かれる。最初は1924年から1925年までの約2年間、次は1927年から1928年までの約1年間だ。本展では最初のパリ生活で生まれた作品を「壁のパリ」、次のパリ生活で生まれた作品を「線のパリ」と呼んでいる。それぞれの時期の作品の特徴を端的に表す命名だと思う。日本の木造家屋とは異なるパリの石造建築の、ザラッとした壁の手触りに着目して、その再現を目指した「壁のパリ」の作品群と、壁や広告塔に貼られた何枚ものポスターに踊る文字に着目して、文字がまるで生命を持ったかのように...「佐伯祐三」展

  • エゴン・シーレ展(3)

    エゴン・シーレ展。シーレの作品については2月3日と2月15日のブログで触れたが、他の画家の作品にも触れたいものがあるので、もう一度。シーレといえば反射的にクリムトとなるが、何点か展示されているクリムトの作品の中では、「ハナー地方出身の少女の頭部習作」が気合の入った作品だ。キャプションによると、学生時代の制作と推定されるそうだ。顔がまるで生きているように描かれている。クリムトの並々ならぬ力量が感じられる。もっとも本展ではクリムト以上にリヒャルト・ゲルストルの作品がまとまっている。ゲルストルは音楽好きのあいだでも多少知られている。ゲルストルは音楽も好きだった。作曲家のシェーンベルクはゲルストルと親交を結んだ(シェーンベルクは、一時は画家になろうかと思ったくらい、美術も好きだった)。年齢はシェーンベルクが9歳上...エゴン・シーレ展(3)

  • 北村朋幹ピアノ・リサイタル

    北村朋幹(きたむら・ともき)のピアノ・リサイタル(東京文化会館シャイニング・シリーズVol.12)。北村朋幹を聴くのは4度目だ。今度もプログラムが凝っている。1曲目はシューマンの「森の情景」。シューマンらしく小品9曲からなる。北村朋幹の演奏は、9曲をフラットに並べるのではなく、第4曲「気味の悪い場所」をピークにして、ゆるやかなシンメトリーを描くようだった。その第4曲「気味の悪い場所」で表現したものはなにか。北村朋幹自身が書いたプログラムノーツには「当初楽譜に書き添えられていた言葉、“死のように青白い花たちの中で一本だけ聳え立つ、人間の血を飲んで赤暗く染まった花”(Ⅳ.気味の悪い場所/ヘッベル)」とある。それが意味するものは、シューマンの奥底に萌した錯乱=狂気だろうか。2曲目はハインツ・ホリガー(1939‐...北村朋幹ピアノ・リサイタル

  • ラキティナ/読響

    アンナ・ラキティナという女性指揮者が読響に初登場した。ラキティナは1989年、モスクワ生まれ。父はウクライナ人、母はロシア人。モスクワとハンブルクで指揮を学んだ。いまはボストン交響楽団でアシスタント・コンダクターを務めている。1曲目はエレナ・ランガー(1974‐)の「フィガロの離婚」組曲。「フィガロの離婚」(原題はFigaroGetsaDivorce)というオペラがあることは、どこかで読んだ記憶がある。そのオペラの組曲版だ。乾いた感性のポップなノリのある音楽。トランペット・ソロ、トロンボーン・ソロ、ピアノ・ソロなどはジャズ風だ。全体的にエンターテインメント性を感じさせる音楽。ラキティナ指揮の読響はそのような音楽の持ち味をよく伝えたと思う。端的にいって、この音楽なら、今度はオペラを観てみたいと思った。2曲目...ラキティナ/読響

  • 原田慶太楼/東響

    原田慶太楼指揮東京交響楽団の定期演奏会。曲目がユニークだ。1曲目は小田実結子(1994‐)の新作「KaleidoscopeofTokyo」。小田実結子は東響の「こども定期」の作曲家プロジェクトで出てきた人らしい。演奏時間約10分のオーケストラ作品。昭和の歌謡番組のテーマ音楽のような部分もある。このような曲が生まれる時代なのか。2曲目はグリーグのピアノ協奏曲。冒頭、音楽の輪郭がはっきりしていることに、目の覚める思いがした。こういってはなんだが、1曲目との格の違いを感じた。もちろんグリーグの名曲とくらべることは公平を欠くと、重々承知しているが。ピアノ独奏はアレクサンダー・ガヴリリュク。夢見るように柔らかい音から鋼のように強靭な音まで、あらゆる音色を繰り出して、この曲を隅々まで描きだす演奏だ。アンコールにショパ...原田慶太楼/東響

  • 川瀬賢太郎/東京シティ・フィル

    川瀬賢太郎が東京シティ・フィルの定期演奏会を振った。曲目はジェームズ・マクミラン(1959‐)の「ヴァイオリン協奏曲」(2009)とベルリオーズの「幻想交響曲」。2曲とも目の覚めるような刺激的な演奏だった。マクミランの「ヴァイオリン協奏曲」は2012年6月に諏訪内晶子のヴァイオリン独奏、マクミラン自身の指揮、オーケストラはN響で聴いたことがある。そのときの記憶をたどってみると、今回の演奏のほうが鮮烈だったと思う。今回のヴァイオリン独奏は郷古廉(ごうこ・すなお)。超絶技巧が連続するこの曲を、有無をいわせぬ説得力をもって弾いた。いうまでもなく郷古廉は、現在はN響のゲスト・アシスタントコンサートマスターを務め、本年4月からはゲスト・コンサートマスターに就任する。これほどの奏者がコンサートマスターにいるN響もすご...川瀬賢太郎/東京シティ・フィル

  • エゴン・シーレ展(2)

    現在開催中のエゴン・シーレ展。2月3日にシーレの「ほおずきの実のある自画像」と「モルダウ河畔のクルマウ(小さな街Ⅳ)」に触れた。シーレの他の作品にも触れたい。わたしがもし本展のシーレ作品の中から好きな作品を3点選ぶなら、上記の「ほおずきの実のある自画像」と「モルダウ河畔のクルマウ(小さな街Ⅳ)」の他に「頭を下げてひざまずく女」(画像は本展のHP↓に掲載されている)を選びたい。ピンク色を主体に色付けされたデッサンだ。前のめりに倒れたような不安定な姿勢の女性を後ろから描いている。顔は見えない。服がめくりあがり、臀部が露出している。背景も影も描かれていない。女性はなにをしているのか。わたしが本作品に惹かれるのは、たしかなデッサン力と女性の存在感と、そしてもうひとつは、その女性はなにをしているのかという謎のためだ...エゴン・シーレ展(2)

  • METライブビューイング「めぐりあう時間たち」

    METライブビューイングで「めぐりあう時間たち」を観た。ケヴィン・プッツ作曲の新作オペラだ。「めぐりあう時間たち」というと、同名の映画を思い出す。わたしは観ていないが、フィリップ・グラスが音楽をつけたので、題名くらいは知っている。その映画がオペラ化された。台本はグレグ・ピアス。METライブビューイングでは毎年1~2本の新作オペラが上映される。そのほとんどを観ているが、今回の「めぐりあう時間たち」は傑作オペラの誕生だと思う。台本のすばらしさと音楽のすばらしさとで、今後多くの人々を感動させるのではないだろうか。物語は3つの時代と場所で進行する。1999年のニューヨークで女性編集者・クラリッサの物語。1923年のイギリスのリッチモンドで女性作家・ヴァージニア(実在の作家・ヴァージニア・ウルフだ)の物語。そして1...METライブビューイング「めぐりあう時間たち」

  • 尾高忠明/N響

    尾高忠明指揮N響の定期演奏会。プログラムに尾高尚忠(尾高忠明の父)、パヌフニクそしてルトスワフスキの曲が並ぶ。尾高尚忠とパヌフニクは第二次世界大戦前のウィーン留学時代の親友だ。またパヌフニクとルトスワフスキはピアノ・デュオを組んだ親友だ。第二次世界大戦のため尾高尚忠とパヌフニクは日本とポーランドに分かれ、また戦後ポーランドの社会主義体制の抑圧を逃れてパヌフニクはイギリスに亡命したので、ポーランドに残ったルトスワフスキとは別れた。1曲目は尾高尚忠のチェロ協奏曲。1943年に書かれ、翌年初演された。まさに戦争の真最中だ。初演時のチェロ独奏は倉田高、指揮は尾高尚忠自身だった。今回のチェロ独奏は宮田大。倉田高の娘・倉田澄子の弟子だ。また今回の指揮者・尾高忠明はいうまでもなく尾高尚忠の息子だ。一聴衆にすぎないわたし...尾高忠明/N響

  • エゴン・シーレ展(1)

    エゴン・シーレ展が開幕した。ウィーンのレオポルド美術館の所蔵作品を中心に構成したもの。レオポルド美術館はシーレのコレクションでは世界のトップクラスだ。何度か行ったことがあるが、初めて行ったときには圧倒された。チラシ(↑)に使われている「ほおずきの実のある自画像」もレオポルド美術館の所蔵作品だ。シーレの代表作のひとつとされている。画像でもわかると思うが、顔に無数の赤や青の斑点がある。一瞬、死相と思ってしまうが、それはシーレを過度にロマンティックにとらえるからだろう。同時期の水彩画「闘士」にも無数の赤や青の斑点があり、それらは全身の痣のように見えるが、たぶんそうではなくて、表現主義のためだろう。「ほおずきの実のある自画像」も同様だ。またこれも画像でわかると思うが、上着に無数の筋が見える。それは服の皺というより...エゴン・シーレ展(1)

  • 高関健/東京シティ・フィル

    高関健指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。直球勝負のドイツ音楽プログラムだ。1曲目はベートーヴェンの「献堂式」序曲。実演で聴くのは珍しい曲だ。珍しい体験を楽しんだが、個人的な想い出がよみがえり、しばし回想にふけった。この曲はウィーンのヨーゼフシュタット劇場の改築オープンのために作曲されたが、そのヨーゼフシュタット劇場に行ったときの想い出がよみがえった。古のウィーンの社交場という雰囲気が残っている劇場だった。わたしはそこでクルト・ヴァイルの「三文オペラ」を観た。書画骨董で「時代が付く」というが、それと似た味わいのある上演だった。2曲目はベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番。ピアノ独奏は小林愛実。冒頭のオーケストラの演奏が「献堂式」序曲よりもまとまっていた。続く小林愛実のピアノはクリアーな音像で、悲しみに耐える...高関健/東京シティ・フィル

  • 「亜欧堂田善」展

    千葉市美術館で「亜欧堂田善」展が開かれている。わたしの家から千葉市美術館までは2時間近くかかるが、行ってみた。亜欧堂田善(あおうどう・でんぜん)といわれても、一体全体なんのことやら、わからない人も多いのではないだろうか。もちろんわたしもわからなかった。そこで少し調べてみると、これは江戸時代の洋風画家・銅版画家の名前であることがわかった。あの鎖国の江戸時代にも洋風画があり、銅版画があったわけだ。鎖国だったので、西洋人から洋画を学んだり、銅版画を学んだりすることはできないが、長崎の出島などから外国の書籍が入ってくるので、それを読み(外国語を解する人に訳してもらうわけだ)、そこに掲載されている図版を手本にして、やってみる。そのパイオニア精神といったらいいか、努力と工夫がすごいと思う。当時、そのようにして洋風画・...「亜欧堂田善」展

  • カーチュン・ウォン/日本フィル

    カーチュン・ウォン指揮日本フィルの東京定期はすばらしかった。カーチュンは今年9月に日本フィルの首席指揮者に就任するので、今後が楽しみだ。1曲目は伊福部昭の「シンフォニア・タプカーラ」。第1楽章冒頭の弦楽器の暗い響きから、カーチュンの響きへのこだわりが感じられる。その後、一斉に照明が灯されたような明るい響きに変わり、目くるめくような音の動きが始まる。その移行での音色の対比、リズムの対比が鮮やかだ。終結部ではホルンのソロが朗々と鳴り、それに続くチェロのソロも味わい深かった。要するにカーチュンに率いられた日本フィルは絶好調だった。第2楽章、第3楽章もその水準をキープし、刮目すべき演奏となった。第3楽章後半でのヴァイオリン・ソロも(短いソロではあるが)この演奏の推進力を象徴するような切れ味の良さがあった。全体的に...カーチュン・ウォン/日本フィル

  • 山田和樹/読響

    山田和樹指揮読響の定期演奏会へ。1曲目は矢代秋雄の交響曲。オーケストラ・ファンには(わたしもその一員だ)、矢代秋雄の交響曲、ピアノ協奏曲そしてチェロ協奏曲は大切な曲目だ。今回も心して出かけたが、十分には満足できなかった。なぜだろう。それは異様に緊張した演奏だったからだ。音楽というものは、演奏のどこかに余裕がないと、聴き手は中に入りこめないものらしい。快い緊張であればよいのだが、今回は表情がこわばった感覚があった。そのためなのかどうなのか、色彩に乏しい印象があった。久しぶりに聴くこの曲は、第1楽章は「春の祭典」の「生贄の踊り」を、第3楽章はメシアンのなにかの曲を想起させる。日本の先人たちの作品の中にはそのような例も散見されるが(つまり西洋音楽の既存の曲をモデルにしたと思われる例だ)、矢代秋雄にしてもそうなの...山田和樹/読響

  • ソヒエフ/N響

    トゥガン・ソヒエフ指揮N響のAプロ。1曲目はブラームスのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏はハオチェン・チャン。1990年上海生まれ。フィラデルフィアのカーチス音楽院で学び、2009年にヴァン・クライバーン国際コンクールで第1位になった。曲が曲なので(つまり大曲中の大曲なので)、最初は力んだ表現も見られ、また音が濁ることもあった。そんな中で、このピアニストはどんなピアニストなのかと、探る思いで聴いた。わかってきたのは、高音がはっきり鳴らされる点だ。錯綜する音の中で、高音にアクセントが置かれる。そのため照度の高い音になる。それとともに、音の運動性が高いことも感じた。どこに向かって動いているのか、わかりやすい。それらの資質が曲とマッチしたのは第4楽章だ。明るい音色でリズミカルに動く音楽が、ハオチェン・チャンの資質...ソヒエフ/N響

  • 森鴎外「護持院原の敵討」

    森鴎外の歴史小説の中からもう一作、「護持院原の敵討」(ごじいんがはらのかたきうち)を取り上げたい(岩波文庫では「大塩平八郎」↑の中に入っている)。これも名作なので、あらすじの紹介は不要かもしれないが、未読の方のためにざっと紹介すると、江戸城の大手門(いまでも竹橋付近にある)の向かいの大名屋敷に泥棒が入り、宿直していた山本三右衛門という武士が殺される。犯人は亀蔵という使用人であることがわかる。遺族は敵討ちを願い出て、許しを得る。亀蔵の行方を追う旅に出て、艱難辛苦の末、敵討ちを果たす。今なら防犯カメラで亀蔵の足取りがつかめそうだが、江戸時代のことなので、足取りはおろか、写真もないので、亀蔵の顔さえわからない。そこで長男の宇平(19歳)と故人の弟・山本九郎右衛門(45歳)は、亀蔵の顔を知る文吉(42歳)という男...森鴎外「護持院原の敵討」

  • 森鴎外「阿部一族」(2)

    (承前)「阿部一族」には前回取り上げた林外記(はやし・げき)以外にも興味深い人物が多い。中でも特異な存在感を放つのが柄本又七郎(つかもと・またしちろう)だ。又七郎は阿部邸の隣家に住む武士。阿部家と柄本家は日頃から親しく交わる仲だった。とくに又七郎は阿部家の二男・弥五兵衛と親しかった。二人は槍の腕前を競い合った。阿部一族が屋敷に立てこもり、明朝には討手(討伐隊)が攻め込むという前夜、又七郎は女房をひそかに阿部家に行かせて、慰問する。「阿部一族の喜は非常であった。」(岩波文庫より引用)とある。だが、又七郎はこうも考える。少々長いが、引用すると、「阿部一家は自分とは親しい間柄である。それで後日の咎もあろうかとは思いながら、女房を見舞いにまで遣った。しかしいよいよ明朝は上の討手が阿部家へ来る。これは逆賊を征伐せら...森鴎外「阿部一族」(2)

  • 森鴎外「阿部一族」(1)

    2022年は森鴎外(1862‐1922)の没後100年だった。そこで鴎外の歴史小説をまとめて読んでみた。まず感嘆したのは簡潔明瞭な文体だ。一文たりとも足したり引いたりできない完璧さだ。その点では、「山椒大夫」と「最後の一句」が双璧だと思う。だが、文体だけではなく、現代の視点で見ても、鴎外の歴史小説には興味深い人物が描かれている。それらの人物を何人か拾ってみよう。まず「阿部一族」から。名作中の名作なので、ストーリーを紹介するまでもないだろうが、ざっと紹介すると、寛永18年(1641年)に熊本藩主・細川忠利が病死する。家臣18人が殉死する。ところが阿部弥一右衛門には殉死の許しが出なかった(殉死は許しを得てするものらしい。許しを得ない場合は、犬死とされる)。殉死をせずに生き残ることは、武士には耐えられない屈辱の...森鴎外「阿部一族」(1)

  • 2022年の音楽回顧

    2022年はどんな年だったろう。激動する社会情勢はわたしが書くまでもないので、音楽に絞ってこの一年を回顧したい。日記もなにも見ずに、じっと目を閉じて、そのとき心に浮かぶもの。それがわたしの得たものだ。まず思い出すのは新国立劇場の新制作「ペレアスとメリザンド」と「ボリス・ゴドゥノフ」だ。いずれも同劇場の初めての舞台上演となった。同劇場は今年がオープン25周年。25年たってやっと「ペレアスとメリザンド」と「ボリス・ゴドゥノフ」が舞台上演されたことに、この劇場がたどった歴史が表れる。歴代の芸術監督はそれぞれ多くの制約のもとでやれるだけのことはやったと思うが、それでも何人かの芸術監督は自分の好みを優先させたきらいがある。結果的にこの劇場はレパートリーの拡充に戦略を欠いた。それを整備しているのが現芸術監督の大野和士...2022年の音楽回顧

  • ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展

    国立西洋美術館で「ピカソとその時代ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」が開かれている。ベルクグリューン美術館はベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の正面側の向かいの建物にある。現在改修工事中なので、所蔵作品の引越し展が実現した。展示作品の総数は108点。内訳は、ピカソ46点、クレー34点、マティス16点、ジャコメッティ5点、セザンヌ4点、ブラック3点で、ピカソとクレーが圧倒的な割合を占める。ピカソ好き、クレー好きの人には見逃せない展覧会だ。ピカソの作品は初期の青の時代から始まって、第二次世界大戦中までをカバーしている。その中で1点あげるとしたら、「大きな横たわる裸婦」(1942)をあげたい(画像は本展のHPに載っている)。ピカソがナチス・ドイツの占領下のパリで描いた作品だ。伝統的な横たわる裸婦像だが、その...ピカソとその時代ベルリン国立ベルクグリューン美術館展

  • B→C 上野通明チェロ・リサイタル

    2021年ジュネーヴ国際音楽コンクールのチェロ部門で優勝した上野通明(うえの・みちあき)がB→Cコンサートに出演した。曲目はすべて無伴奏チェロ曲だ。1曲目はジョン・タヴナー(1944‐2013)の「トリノス」。わたしには未知の作曲家だ。石川亮子氏のプログラムノーツによると、「エストニアのアルヴォ・ペルトとともに、現代における宗教音楽の作曲家として独自の存在感を放つ」人だそうだ。チェロの深々とした音が印象的だったが、それは曲のためか、演奏のためか。2曲目はクセナキス(1922‐2001)の「コットス」。初めて聴く曲だ。第1回ロストロポーヴィチ国際チェロコンクールの課題曲として作曲されたそうだ(同プログラムノーツによる)。「クセナキスの音楽に特徴的なグリッサンドや、広い音域を執拗に行き来するパッセージ」(同)...B→C上野通明チェロ・リサイタル

  • 新国立劇場「夜明けの寄り鯨」

    演劇「夜明けの寄り鯨」を観た。作は横山拓也、演出は大澤遊。ともに40代の方のようだ。新国立劇場の演劇部門が今シーズン立ち上げた【未来につなぐもの】というタイトル=コンセプトの企画の第二作に当たる。第一作は去る11月に上演した「私の一ヶ月」(作は須貝英、演出は稲葉賀恵)。わたしはそれを観たので、第二作の「夜明けの寄り鯨」も観てみようと思った。主人公は40代の女性の三桑真知子。三桑はある海辺の町を訪れる。その町は三桑がまだ大学生のころに(25年前だ)友人たちと訪れた町だ。楽しいはずの旅行だったが、ある出来事が起こり、友人たちのひとりのヤマモトヒロシが姿を消す。その後ヤマモトは行方不明になった。生きているのか、死んでいるのか。三桑はヤマモトが姿を消したのは自分が発した言葉のためではないかと思い悩んでいる。それが...新国立劇場「夜明けの寄り鯨」

  • ヴァイグレ/読響

    ヴァイグレ指揮読響の定期演奏会は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番(第1番ではない)とタネーエフの交響曲第4番という渋いプログラムだった。集客は難しいだろうと思ったら、チケットは早々に完売になった。ソリストの反田恭平人気らしい。反田恭平の演奏はすごかった。すさまじい熱量だ。ピアノ協奏曲第2番は第1番の陰に隠れて、演奏機会は多くはないが、実際に演奏してみると、意外に演奏効果の上がる曲だ。だが、それにしても、反田恭平の演奏は圧倒的だった。(本来はこういう言い方は避けたいのだが、とっさに適当な表現が見つからないので、止むを得ずいうが)従来の日本人演奏家のスケールを一回り超えている。反田人気が沸騰するゆえんだろう。読響も反田恭平と堂々と渡り合った。第2楽章のヴァイオリン独奏はコンサートマスターの長原幸太。艶の...ヴァイグレ/読響

  • 下野竜也/日本フィル

    巷ではティーレマン指揮シュターツカペレ・ベルリンの来日公演が評判になっているが、一方では下野竜也指揮日本フィルが、外国オーケストラの来日公演では組めないプログラムを組んだ。プログラム前半は、ジェラルド・フィンジ(1901‐1956)の「入祭唱」、マーク=アンソニー・タネジ(1960‐)の「3人の叫ぶ教皇」そしてフィンジの「武器よさらば」を(あいだを空けずに)続けて演奏するもの。フィンジの「入祭唱」は、元はヴァイオリン協奏曲の第2楽章であったものを独立させた曲のようだ(等松春夫氏のプログラムノーツ)。なるほど独奏ヴァイオリン(コンサートマスターの扇谷泰朋が美しい音色を聴かせた)が終始歌い、そこにオーケストラが(イングランドの田園風景を思わせるような)穏やかなバックを付ける。タネジの「3人の叫ぶ教皇」は一転し...下野竜也/日本フィル

  • ルイージ/N響

    ファビオ・ルイージ指揮N響の12月の定期Aプロは、さりげなく生まれた名演だった。曲目はワーグナーの「ヴェーゼンドンクの5つの詩」(メゾ・ソプラノ独唱は藤村実穂子)とブルックナーの交響曲第2番(初稿/1872年)。藤村実穂子の独唱で感銘を受けた点は、言葉と音楽が一体になっていることだ。ドイツ語のディクション、豊かな抑揚、そして囁くような小声からホールを満たす声まで、完璧にコントロールされている。その歌唱を聴いていると、歌というよりも、語りのようだ。マチルデ・ヴェーゼンドンクがそこにいて、一人語りをしているようだ。ルイージ指揮N響も繊細な演奏だった。細い音でけっして声を抑圧せず、歌にぴったりつけている。それはルイージがオペラ指揮者だからだろう。一朝一夕にできる技ではない。細かい点では、第3曲「温室で」(「トリ...ルイージ/N響

  • 土を喰らう十二ヶ月

    「土を喰らう十二ヵ月」をみた。とてもよかった。あちこちで紹介されている映画なので、あらすじを書くまでもないだろうが、一応書いておくと、信州の古民家に初老の作家の「ツトム」が住んでいる。妻は13年前に亡くなった。ツトムの家には時々担当編集者の「真知子」が訪ねてくる。ツトムは畑や山でとれた食材で食事を用意して、真知子と食べる。自然の恵みがおいしい。ツトムは真知子に淡い恋心を抱く。山奥の古民家でのほとんど自給自足の生活。自然の中にいて、四季の移ろいを感じ、だれにも邪魔されずに、孤独を楽しむ。わたしをふくめて、多くの人が憧れる生活だろう。もちろん実行は難しい。手が届きそうでいて、届かない。だから憧れる。そんな生活だ。究極のスローライフといってもいい。その象徴かもしれないが、時折カメが登場する。畑の隅を歩いていたり...土を喰らう十二ヶ月

  • ノット/東響

    ノット&東響の比較的地味なプログラムの定期演奏会だったが、満足度は大きかった。1曲目はシューマンの「マンフレッド」序曲。ヴィブラートが控えめで、クリアーな音が鳴った。他の方のツイッターを見ると、スダーンのころの音が残っていると書いている人がいた。なるほど、そうなのかもしれない。2曲目はシューマンのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏はアンティエ・ヴァイトハースAntjeWeithaas。1966年、ドイツ生まれ。わたしは知らないヴァイオリン奏者だが、東響には2018年に客演したことがあるそうだ。長身痩躯の女性で、ドイツ人によくいる飾り気のないタイプだ。演奏も良かった。わたしは惹きこまれた。この曲は演奏によっては退屈しがちだが、ヴァイトハースは滑らかに、かつ滋味豊かに演奏した。わたしの記憶に残っている演奏の...ノット/東響

  • 新国立劇場「ボリス・ゴドゥノフ」

    新国立劇場の新制作「ボリス・ゴドゥノフ」。会場入り口でもらった「あらすじ」に目を通すと、原作をかなり変えているようだ。ボリス・ゴドゥノフの息子フョールドを重度の障害児と設定した点をはじめ、ディテールで変えている点がかなりある(もちろん基本的なプロットは変わらないが)。これはおもしろそうだと、一気にスイッチが入った。上演が始まると、フョールドが現れる。ベッドに横たわっている。フョールドの顔がスクリーンに映される。たしかに障害が重そうだ。視覚的に大きな衝撃を受ける。ボリスがベッドに寄り添う。心痛にいたたまれない様子だ。その姿は大国ロシアの絶対的な権力者というよりは、障害児をもつ苦悩の父親を思わせる。原作ではフョールドがロシアの地図を学ぶ場面が、本演出ではフョールドは、学ぶことはおろか、言葉を発することもできな...新国立劇場「ボリス・ゴドゥノフ」

  • ルルー/日本フィル

    ロシアに住むラザレフが(たしかモスクワ在住だったと思う)、ロシアのウクライナ侵攻以来、来日が難しくなっている。その代役に世界的なオーボエ奏者のフランソワ・ルルーが立った。オーボエの腕前はトップクラスだが、指揮はどうかというのが興味の的だ。1曲目はドヴォルジャークの管楽セレナーデ。ルルーがオーボエを吹きながらアンサンブル・リーダーを務めた。それにしても、ルルーの音だけが目立ち、日本フィルのメンバーの音が背景に退きがちだった。日本フィルのメンバーにはさらなる積極性がほしかった。ルルーとの共演に緊張していたのか。2曲目はドヴォルジャークの「伝説」から第1番、第8番、第3番。わたしは「伝説」という曲を知らなかったが、全部で10曲あるそうだ。今回演奏された3曲は「スラヴ舞曲集」に通じる民族色豊かな曲だったが、「スラ...ルルー/日本フィル

  • 井上道義/N響

    井上道義指揮N響のAプロ。1曲目は伊福部昭の「シンフォニア・タプカーラ」。第1楽章冒頭のずっしりと重い旋律がショスタコーヴィチのように聴こえた。2曲目にショスタコーヴィチの交響曲第10番が組まれているので、わたしのモードがショスタコーヴィチ・モードになっていたのかもしれない。その後の展開はまさに“伊福部節”が満載なので、わたしのモードも切り替わった。2曲目はそのショスタコーヴィチの交響曲第10番。オーケストラの音が伊福部昭のときよりも引き締まった。アンサンブルも精緻だ。そして音楽の襞にていねいに触れていく演奏だ。井上道義の指揮はときに音が濁ったり、粗くなったりすることがあるが、今回は上質な音楽が崩れない。純音楽的な演奏といってもいい。第4楽章コーダのショスタコーヴィチの音名象徴の連呼もあまり狂騒的にはなら...井上道義/N響

  • 藤岡幸夫/東京シティ・フィル

    藤岡幸夫指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。プログラムは今年生誕150年のヴォーン・ウィリアムズの2曲にドビュッシーの2曲を組み合わせたもの。ヴォーン・ウィリアムズは藤岡幸夫の得意のレパートリーだ。1曲目はそのヴォーン・ウィリアムズの「トマス・タリスの主題による幻想曲」。美しい曲だが、当夜の演奏は(わたしのイメージにくらべると)音が分厚く感じられた。2群の弦楽合奏による曲だが、主体となる弦楽合奏は12型の編成、エコーとなる弦楽合奏は2‐2‐2‐2‐1の編成(これは譜面で指定されているのかもしれない)。合わせると14型になる。もう少し絞ったほうがいいのではないかと思ったが。個別の奏者ではヴィオラの首席奏者の音が美しかった。2曲目は同じくヴォーン・ウィリアムズの「2台のピアノのための協奏曲」。そんな曲があった...藤岡幸夫/東京シティ・フィル

  • 小山敬三美術館

    もう一ヶ月ほど前になるが、小諸市立小山敬三美術館を訪れた。といっても、じつは懐古園を訪れた際に、その隣に同美術館があったので、ついでに立ち寄った次第だ。小山敬三という名前にはピンとこなかったが、館内に入って作品を見たときに、ああ、この画家かと思った。じっと作品を見ているうちに、良さがわかってきた。流行の先端を行くような野心がなく、穏やかな作風だが、それがわたしの感性に合った。簡単に経歴に触れると、小山敬三は1897年に小諸で生まれた。藤島武二に就いて洋画を学んだ。詩人・作家の島崎藤村のすすめで1920年にフランスに渡り、シャルル・ゲランの画学校に入った。1928年に帰国。1929年に神奈川県の茅ケ崎にアトリエを構えた。1960年に日本芸術院会員。1970年に文化功労者。1975年に文化勲章受章。1987年...小山敬三美術館

  • 新国立劇場「私の一ヶ月」

    わたしは演劇も好きだが、コロナ禍もあって(それ以上に、出不精になっているからだが)しばらくご無沙汰していた。そんなわたしだが、昨晩は久しぶりに新国立劇場の「私の一ヶ月」に出かけた。演劇の空間が懐かしかった。須貝英の作、稲葉賀恵の演出。プログラムに載ったプロフィールにはお二人の年齢は書かれていないが、経歴を見ると、中堅の働き盛りの方たちのようだ。本作は凝った作り方をしている。3つの時空間が同時に進行するのだ。一つは2005年11月に「泉」がある地方都市の家で日記を書いている。もう一つは2005年9月にその地方都市で「拓馬」が両親の経営するコンビニを毎日訪れ、買い物をする。三つ目は2021年9月に都内の大学の閉架書庫で「明結」(あゆ)がアルバイトをする。当初はバラバラに見えるこれらの3つの時空間が、劇の進行と...新国立劇場「私の一ヶ月」

  • 鈴木秀美/東京シティ・フィル

    東京シティ・フィルの定期演奏会に鈴木秀美が客演した。4年ぶりだそうだ。曲目にはハイドンが2曲ふくまれている。ハイドンを聴くのは久しぶりだ。楽しみにしていた。1曲目はハイドンの交響曲第12番ホ長調。レアな曲だ。1763年、ハイドン31歳の年の作品だ。もちろんわたしは初めて聴く。全3楽章からなり、第2楽章がホ短調で書かれている。哀愁の漂う美しい音楽だ。演奏は弦楽器が4‐4‐1‐1‐1で、管楽器をふくめても16人の小編成だった。ハイドンは作曲当時、エステルハージ家の副楽長をつとめていた。そのころの同家のオーケストラは14名ほどだったという(柴田克彦氏のプログラムノーツより)。とするなら今回程度の編成だったか。ともかくわたしはこの曲が、そして演奏が、たいへん気に入った。清新で、しかもたしかな音楽がある。ハイドンの...鈴木秀美/東京シティ・フィル

  • カンブルラン/読響

    カンブルランが読響に帰ってきた。3年半ぶりだそうだ。軽い身のこなしは変わっていない。1曲目はドビュッシーの「遊戯」。音の透明感、色彩感、陰影の変化、敏捷さ、洒脱さなど、3年半のブランクを感じさせない。カンブルランはもちろんだが、ブランクをものともしない読響もたいしたものだ。2曲目は去る10月7日に亡くなった一柳慧(享年89歳)の遺作「ヴァイオリンと三味線のための二重協奏曲」の初演。ヴァイオリン独奏は成田達輝、三味線独奏は本條秀慈郎。オーケストラは弦楽五部と多数の打楽器という編成。2楽章構成で演奏時間は約18分。故人に礼を失しないように気を付けなければならないが、これはなんとも挨拶のしようのない曲だ。三味線の凛とした音色が印象的だった、とだけいっておこう。わたしにとっての一柳慧は、ヴァイオリン協奏曲「循環す...カンブルラン/読響

  • ノット/東響

    ノット指揮東京交響楽団の定期演奏会。1曲目はシェーンベルクの「5つの管弦楽曲」。シェーンベルクが12音技法に達する前の無調の時代の作品だ。わたしは結局シェーンベルクではこの時代の作品が一番好きだ。なぜだろう。それを考えながら聴いた。そのとき思い出したのは画家のカンディンスキーだ。周知のように、カンディンスキーとシェーンベルクは親交があった。そして興味深いことに、シェーンベルクが「5つの管弦楽曲」を書いたころに、カンディンスキーは具象画が揺らぎ、抽象画に進もうとした。二人とも芸術上の危機にあった。その歩みが似ている。シェーンベルクは無調の音楽が飽和状態に陥り、一方、カンディンスキーは具象画が揺らぎ始め、それを押しとどめられない状態に陥る、二人のその時期の作品に表れる緊張感が、わたしは好きなのだろうと思う。演...ノット/東響

  • ブロムシュテット/N響

    ブロムシュテット指揮N響のCプロ。曲目はシューベルトの交響曲第1番と第6番だ。N響のCプロはショート・プログラムになったので、わたしはCプロの定期会員をやめたが、今回は1回券を買って出かけた。先日のAプロのマーラーの交響曲第9番が異常な緊張に包まれていたので、今回はどうなるかと思ったが、N響もブロムシュテットも、大きな山を乗り越えた安堵感からか、平常心を取り戻したようだ。そうなるとN響の押しても引いてもびくともしない鉄壁のアンサンブルが戻った。ブロムシュテットの指揮も、楷書体というのか、清潔で格調高く、しかも窮屈なところは微塵もない、ブロムシュテット本来のものに戻った。ブロムシュテットは今回N響に客演に来る前にベルリン・フィルの定期演奏会を振ったが、そのときはシューベルトの交響曲第3番を演奏していた。いま...ブロムシュテット/N響

  • インキネン/日本フィル

    日本フィルの首席指揮者としてのインキネンの最終シーズンが始まった。今回はベートーヴェンの交響曲第8番と第7番。あとは来年4月の東京定期でのシベリウスの「クレルヴォ交響曲」と5月の横浜定期でのシベリウスの交響詩「タピオラ」とベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」を残すのみ。わたしはシベリウスの2曲が楽しみだ。今回のベートーヴェンの交響曲第8番と第7番では、インキネンは日本フィルに、それまでの日本フィルにはない音をもたらしたと思った。ラザレフの着任前にはどん底状態に陥っていた日本フィルだが、それをラザレフが立て直した。着任早々のプロコフィエフの交響曲チクルスでは、目の覚めるような色彩豊かな演奏を繰り広げた。その後の、とくにショスタコーヴィチの交響曲の数々では、モスクワ音楽院でショスタコーヴィチの姿を見ながら学ん...インキネン/日本フィル

  • インキネン/日本フィル

    日本フィルの首席指揮者としてのインキネンの最終シーズンが始まった。今回はベートーヴェンの交響曲第8番と第7番。あとは来年4月の東京定期でのシベリウスの「クレルヴォ交響曲」と5月の横浜定期でのシベリウスの交響詩「タピオラ」とベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」を残すのみ。わたしはシベリウスの2曲が楽しみだ。今回のベートーヴェンの交響曲第8番と第7番では、インキネンは日本フィルに、それまでの日本フィルにはない音をもたらしたと思った。ラザレフの着任前にはどん底状態に陥っていた日本フィルだが、それをラザレフが立て直した。着任早々のプロコフィエフの交響曲チクルスでは、目の覚めるような色彩豊かな演奏を繰り広げた。その後の、とくにショスタコーヴィチの交響曲の数々では、モスクワ音楽院でショスタコーヴィチの姿を見ながら学ん...インキネン/日本フィル

  • ブロムシュテット/N響

    95歳のブロムシュテットが予定通りN響を指揮した。それだけでも驚異的だが、おまけに曲目がマーラーの交響曲第9番だ。やはり平常心では聴けなかった。第1楽章の冒頭、弦楽器の音色がやわらかく、まるで羽毛で撫でるようだ。それが一気に緊張をはらみ、衝撃的な音にのぼりつめる。わたしはその時点で95歳という年齢を忘れた。だが、正直にいうと、第1楽章の後半から音楽に重さを感じ始めた。第2楽章では音楽の重さについていけなくなった。だが第3楽章になると、テンポが通常の速さに戻り、重さが消えた。第4楽章では弦楽器の渾身の演奏に目をみはった。指揮者への献身は一流オーケストラの証明だ。それは音楽への献身でもある。そんな感動が湧いた。稀有な演奏を聴いたと思う。ブロムシュテットは椅子に座って指揮をした。ときに上半身を大きく揺らすが、基...ブロムシュテット/N響

  • ノット/東響

    ジョナサン・ノット指揮東響の定期演奏会。じつはこの演奏会を聴きたくて今シーズンから定期会員になった。お目当てはショスタコーヴィチの交響曲第4番だ。プログラムはまずラヴェルの「道化師の朝の歌」から。もちろん良い演奏だったが、ノット東響ならこれくらいはできるだろうと。そんな不遜な感想に我ながら呆れるが。次にラヴェルの歌曲集「シェエラザード」。ソプラノ独唱は安井みく。初耳の名前だ。国立音楽大学を卒業後、東京芸大大学院修士課程を修了。いまはイギリスのギルドホール音楽院に在籍中。バッハ・コレギウム・ジャパンのメンバーだそうだ。素直で美しい声だが、ときにオーケストラに埋もれがちだ。それはオーケストラが雄弁だからでもあるだろう。正直、わたしにはオーケストラのほうがおもしろかった。最後にショスタコーヴィチの交響曲第4番。...ノット/東響

  • 新国立劇場「ジュリオ・チェーザレ」

    新国立劇場の「ジュリオ・チェーザレ」の最終日を観た。同劇場の記念すべきバロック・オペラ第一弾(去年の「オルフェオとエウリディーチェ」をバロック・オペラにふくめるなら、むしろヘンデル・オペラ第一弾といったほうがいいか)だと思った。まず演出だが、ロラン・ペリーのこの演出は、舞台を博物館の倉庫にとっている。ローマ時代の彫刻その他が保管されている。それらの古代の遺物からジュリオ・チェーザレ(=ジュリアス・シーザー)、クレオパトラ、その他の人々の魂が動きだす。そのドラマがこのオペラだ。一方、舞台は博物館の倉庫なので、多数の労働者が出入りする。労働者たちは古代の人々の魂が見えない。その結果、舞台には古代の人々の魂と労働者たちが(お互い無関係に)共存する。その設定がバロック・オペラの世界を現代につなぐ。オーケストラにも...新国立劇場「ジュリオ・チェーザレ」

  • 「浜辺のアインシュタイン」補足

    昨日「浜辺のアインシュタイン」の感想を書いたが、舌足らずな点があったので、補足したい。まず“レジーテアター”との関連のことだが、そもそも“レジーテアター”は日本語でどう訳されているのだろう。インターネットで検索したが、いまひとつはっきりしない。わたしなりに日本語で表現してみると、「演出主導の音楽劇」といったところか。昨日も書いたが、わたしが経験したレジーテアター作品は、ヴォルフガング・リームの「ハムレット・マシーン」(チューリッヒ歌劇場の上演)と「メキシコの征服」(ザルツブルク音楽祭の上演)だ。その2作品の経験から、レジーテアターとは断片的な言葉と、作品の基調となる音楽からなり、上演に当たっては、演出家が独自のヴィジョンで作品を構築して観客に提供するものと考える。そう考えてよいなら、「浜辺のアインシュタイ...「浜辺のアインシュタイン」補足

  • 浜辺のアインシュタイン

    フィリップ・グラス(1937‐)のオペラ(オペラといっていいのかどうか。ともかく型破りな作品だ)「浜辺のアインシュタイン」は、一生観る機会がないのではないかと思っていた。1992年に東京公演があったそうだが、そのころは仕事が忙しくて、公演があること自体知らなかった。その後、アメリカ公演やヨーロッパ公演の予定を知ったが、休暇を取れなかった。その「浜辺のアインシュタイン」が思いがけず神奈川県民ホールで上演された。初日に観に行ったが、その帰りに当公演の開催の立役者と思われる一柳慧氏(作曲家、神奈川芸術文化財団芸術総監督)の訃報に接した。前日に亡くなったらしい。なんたること。そのショックをふくめて、「浜辺のアインシュタイン」に触れた経験は、わたしには忘れられない想い出になりそうだ。いうまでもないが、「浜辺のアイン...浜辺のアインシュタイン

  • 国立西洋美術館の北欧絵画

    先日、下野竜也指揮都響の演奏会を聴き、その感想を書いたが、当日は演奏会の前に友人と会っていた。友人と別れてから演奏会まで、しばらく時間があったので、国立西洋美術館で常設展を観た。いつもは企画展を見た後で慌ただしく観る常設展だが、今回は時間があるので、ゆっくり観ることができた。常設展の最後のセクションに、フィンランドの国民的画家といわれるアクセリ・ガッレン=カッレラAkseliGallen-Kallela(1865‐1931)の「ケイテレ湖」という作品が展示されていた。フィンランドの湖沼地帯にあるケイテレ湖を描いた作品だ。画面の大半をケイテレ湖の湖面が占めている。鏡のように静かな湖面だ。そこに銀灰色の線がジグザグに走っている。フィンランドの民俗的叙事詩「カレワラ」に登場する英雄ワイナミョイネンが船を走らせた...国立西洋美術館の北欧絵画

  • 下野竜也/都響

    今年は別宮貞雄(1922‐2012)の生誕100年、没後10年の記念年だ。そこで都響が定期演奏会でオール別宮貞雄プロを組んだ。曲目はヴァイオリン協奏曲(1969)、ヴィオラ協奏曲(1971)とチェロ協奏曲(1997/2001)。指揮は下野竜也。いまわたしは3曲を作曲順に並べたが、じつはプログラムはチェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンの順に並べられた。作曲順をさかのぼる形だ。それが意外だった。なぜ作曲順とは逆の順序で演奏するのだろう。その答えは演奏会を聴くとよくわかった。チェロ協奏曲は他の2曲にくらべて音楽の密度が薄いのだ。チェロ協奏曲では演奏会が締まらない。一方、ヴィオラ協奏曲とヴァイオリン協奏曲は、作曲年代が近いせいか、ともに密度が濃いので、どちらが最後であっても構わないようだ。で、1曲目に演奏されたチェロ協...下野竜也/都響

  • ヴァイグレ/読響

    ヴァイグレ指揮読響の日曜マチネーコンサート。1曲目はグリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲。演奏会のオープニングによく演奏される曲だが、そんなときによく聴くパッと派手に盛り上げる演奏ではなくて(あるいは最短記録を競うような猛スピードの演奏ではなくて)、オペラが始まることを予感させる、いかにも序曲らしい演奏だ。ヴァイグレはやはりオペラ指揮者なのだと。2曲目はラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」。ピアノ独奏はパヴェル・コレスニコフPavelKolesnikov。未知のピアニストだ。プロフィールに生年の記載がなかったので、Wikipediaを見ると、1989年にロシアのノヴォシビルスクで生まれたそうだ。現在はロンドン在住とのこと。ステージマナーもどことなく内向的だが、演奏も派手なヴィルトゥオーゾ・タイ...ヴァイグレ/読響

  • ヴァイグレ/読響

    ヴァイグレ指揮読響の定期演奏会。メインの曲目はブラームスの「ドイツ・レクイエム」だが、その前にダニエル・シュニーダーの「聖ヨハネの黙示録」が演奏された。ダニエル・シュニーダーDanielSchnyder(1961‐)はチューリヒ生まれで、現在はニューヨークを拠点とする作曲家兼サクソフォン奏者だ。澤谷夏樹氏のプログラムノートによれば、「作品の幅は実に広い。室内楽からオペラまで300曲ほどが作品リストに並ぶ。なかには中国、アラブ、アフリカの民俗的な素材を用いたもの、バロック音楽やジャズを下敷きにしたものも」ある。「聖ヨハネの黙示録」は2000年にアメリカのミルウォーキー交響楽団の委嘱により作曲された。演奏時間約30分のオラトリオだ。黙示録というと、フランツ・シュミット(1874‐1939)の「七つの封印の書」...ヴァイグレ/読響

  • ショハキモフ/東響

    東京交響楽団の定期演奏会にアジス・ショハキモフAzizShokhakimovという指揮者が初登場した。ウズベキスタン出身だ。プロフィールに年齢の記載はないが、動作が若々しいので、30代か40代だろう。現在フランスのストラスブール・フィルの音楽監督とテクフェン・フィル(どこのオーケストラだろう)の芸術監督を務めている。1曲目はドビュッシーの「管弦楽のための映像」から「イベリア」。第1曲の「通りから道から」でのアクセントの強い表現と第2曲の「夜の香り」での陶酔的な弦楽器の音色が印象的だ。全体的に個々のパートが明瞭に聴こえた。2曲目はアンリ・トマジ(1901‐1971)の「トランペット協奏曲」(1948)。トランペット独奏はティーネ・ティング・ヘルセット。ノルウェー出身の女性奏者だ。キラキラ光るドレスを身にまと...ショハキモフ/東響

  • ファビオ・ルイージ/N響

    ファビオ・ルイージがN響の首席指揮者になって初めての定期演奏会。曲目はヴェルディの「レクイエム」。宗教曲ではあるが、実際には祝典的でオペラ的でもあるので、演奏が始まると、首席指揮者就任祝いの曲として違和感はなかった。わたしは約2年ぶりのNHKホールへの復帰になるが、NHKホールの内装も音響もとくに変わっていなかった。あのデッドな音響はそのままだ。そこで聴くN響の音も変わらない。N響はこの約2年間、東京芸術劇場に会場を移したが、音響的には癖のある同劇場なので、最初はてこずった風もある。だが、さすがにN響だ、見る見るうちに同劇場を巧みに鳴らすようになった。ところがNHKホールに戻って、N響はふたたび同ホールを鳴らすことにてこずっているように見える。ファビオ・ルイージの指揮は、激情に身を任すのではなく、沈着に音...ファビオ・ルイージ/N響

  • ラルス・フォークト追悼

    ドイツのピアニストのラルス・フォークトが9月5日に亡くなった。享年51歳。2021年に癌が見つかり、闘病を続けながら演奏活動をしていたそうだ。最後は自宅で家族に見守られながら息を引き取ったという。ご冥福を祈る。51歳というとまだ働き盛りだ。だからなのだろう、わたしも少々ショックだった。訃報に接して以来、フォークトのCDを聴き続けている。にわか仕込みのわたしにフォークトの演奏を語る資格はないかもしれないが、CDを聴いて感じたことを書いてみたい。わたしがフォークトの実演を聴いた経験は2度ある。いや、2度しかないというべきだろう。来日回数の多いフォークトのことだから、その演奏を何度も聴いたファンも多いだろう。わたしはわずか2度だが、それでもフォークトの演奏は記憶に残っている。2度ともN響の定期演奏会だった。1度...ラルス・フォークト追悼

  • 山田和樹/日本フィル

    山田和樹が指揮する日本フィルの定期。1曲目は貴志康一(1909‐1937)のヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏は日本フィルのソロ・コンサートマスター田野倉雅秋。田野倉は2019年9月に間宮芳生(1929‐)のヴァイオリン協奏曲を演奏した(バックは今回と同じく山田和樹指揮日本フィル)。そのときの熱演を記憶しているのだが、それとくらべると、今回はすっきりスマートに演奏していたように思う(日本フィルも同様)。それはそれでよいのだが、今回は音の細さを感じた。前回は感じなかったので、今回の演奏スタイルのせいか。ところでこの曲は、小味渕彦之氏のプログラム・ノートによれば、全3楽章のうちの第1楽章が1934年3月29日にベルリンで、20世紀の音楽史にその名を残すゲオルク・クーレンカンプの独奏、貴志康一自身の指揮、映画...山田和樹/日本フィル

  • 高関健/東京シティ・フィル

    高関健指揮東京シティ・フィルの9月の定期。曲目はエルガーのヴァイオリン協奏曲とシベリウスの交響曲第4番。渋いというか何というか、券売は難しそうだが、そのプログラムをやれるところまで東京シティ・フィルはきたのだろう。エルガーのヴァイオリン協奏曲の独奏者は竹澤恭子。わたしは久しぶりだが、音の太さ、音楽の熱量、スケールの大きさ、その他演奏全体が日本人離れしている。若いころからそうだったが、その竹澤恭子が健在で、しかも年齢に応じてどっしりした存在感を備えるようになった。わたしは昔からのファンだが、いまの竹澤恭子を聴き、かつ見ると、演奏家もファンも同じ時間を生きてきたのだという感慨を持つ。竹澤恭子が会場の聴衆を自分の土俵に引きこみ、リラックスさせ、楽しませる、その余裕あるステージマナーと演奏への自信が、当夜は感じら...高関健/東京シティ・フィル

  • イザベル・ムンドリー「オーケストラ・ポートレート」

    サントリーホールサマーフェスティバル2022の最終日。今年のテーマ作曲家のイザベル・ムンドリー(1963‐)の委嘱新作その他の演奏会。オーケストラは東京交響楽団。指揮はミヒャエル・ヴェンデベルク。ヴェンデベルクは現在ドイツのハレ歌劇場の第一カペルマイスターを務めている。2000~05年にはパリのアンサンブル・アンテルコンタンポランのピアニストでもあったそうだ。ピアノの腕前も相当なものだろう。1曲目はムンドリーの「終わりなき堆積」(2018/19)。静―静―動の3部からなる。とくに前半の2つの静の部分は、夜の音楽のように聴こえる。全体的に音色への傾斜が感じられる。8月24日の室内楽・独奏曲のときとは趣が異なる。2曲目はムンドリーが「影響を受けた曲」として選んだドビュッシーの「遊戯」。8月24日の印象からは、...イザベル・ムンドリー「オーケストラ・ポートレート」

  • クラングフォルム・ウィーン「クセナキス100%」

    サントリーホールサマーフェスティバル2022。クラングフォルム・ウィーンの最終公演はクセナキス・プログラム。1曲目は6人の打楽器奏者のための「ペルセファッサ」。ステージ上に2人、1階客席の左右に各1人、1階客席の後方に2人が配置される。写真(↑)を撮ってきた。1階客席の後方2人の位置、1階客席の(ステージから見て)左側の位置、ステージ上の1人の位置が見える。1階席の中央に座った人は、前後左右から打楽器の音に囲まれる。わたしは2階席中央に座ったが、音の移動が視覚的にわかり、それはそれでおもしろかった。野々村禎彦氏のプログラムノートによれば、全曲は6部に分かれる。その第1部は「単純な等拍リズムで始まり、3連符や5連符が混ざり始め、複雑なカノンに至る」とある。おもしろいことには(残念なことには、というべきかもし...クラングフォルム・ウィーン「クセナキス100%」

  • イザベル・ムンドリー「室内楽ポートレート」

    サントリーホールサマーフェスティバル2022のテーマ作曲家はイザベル・ムンドリーIsabelMundry(1963‐)。ドイツの女性作曲家だ。ミュンヘンやチューリヒの大学で教えている。日本の秋吉台や武生の音楽祭にも参加したことがあるそうだ。ドイツ語圏はもちろん、日本の音楽関係者にも知られた存在なのだろう。だが、わたしの主なフィールドの在京オーケストラでは、プログラムにその名を見たことはなかった。どんな作曲家なのだろう。当夜はムンドリーの室内楽(独奏曲をふくむ)が5曲演奏された。煩瑣かもしれないが、まず曲名を列挙すると、演奏順に、「時の名残り」(2000)、「『誰?』フランツ・カフカ断章」(2004)、「リエゾン」(2007~09)、「バランス」(2006)、「いくつもの音響、いくつもの考古学」(2017/...イザベル・ムンドリー「室内楽ポートレート」

  • クラングフォルム・ウィーン「室内楽プログラム」

    サントリーホールサマーフェスティバル2022。クラングフォルム・ウィーンの演奏会の第二夜は9人の現存の作曲家の小品を集めたもの。以下演奏順に記すと、1曲目はゲオルク・フリードリヒ・ハース(1953‐)の「光のなかへ」(2007)。短い曲なので戸惑う。2曲目はサルヴァトーレ・シャリーノ(1947‐)の「夜の果て」(1979)。チェロ独奏。震えるような弱音で終始する。いかにもシャリーノらしい神経質な曲だ。じつは当初はホルンの独奏曲「アジタート・カンタービレ」が予定されていたが、ホルン奏者が口内炎になったとのことで、「夜の果て」に変更された(それに伴い曲順も一部変更された)。この曲を聴けてよかった。3曲目はレベッカ・サンダース(1967‐)の「行きつ戻りつ」(2010)。距離を置いて向き合うヴァイオリン奏者とオ...クラングフォルム・ウィーン「室内楽プログラム」

  • クラングフォルム・ウィーン「大アンサンブル・プログラム」

    サントリーホールサマーフェスティバル2022が始まった。今年のプロデューサーはウィーンの現代音楽アンサンブル「クラングフォルム・ウィーン」だ。第一夜は比較的大きな編成の曲を集めたプログラム。指揮は現代音楽に強いエミリオ・ポマリコ。1曲目はヨハネス・マリア・シュタウト(1974‐)の「革命よ、聴くんだ(ほら、仲間だろう」(2021)。シュタウトの作品は、2016年10月にカンブルラン指揮の読響でヴァイオリン協奏曲「オスカー」(ヴァイオリン独奏は五嶋みどり)を聴いたことがあり、おもしろかった記憶があるので、今度も楽しみにしていたが、それほどでもなかった。中間部でちょっとしたパフォーマンスがあり、その部分で音楽が陰りをみせたことが印象に残る。2曲目はミレラ・イヴィチェヴィチ(1980‐)の「サブソニカリー・ユア...クラングフォルム・ウィーン「大アンサンブル・プログラム」

  • ポペルカ/東響

    当初はドイツの作曲家・指揮者のマティアス・ピンチャーが指揮する予定だった東響の定期だが、ピンチャーがキャンセルして、ペトル・ポペルカPetrPopelkaという指揮者が代役に立ち、曲目も一部変更になった。プロフィールによると、ポペルカはチェコのプラハ出身。2010~19年にドレスデン・シュターツカペレで副首席コントラバス奏者を務めた。2016年から指揮を始め、2020年8月からノルウェー放送管弦楽団の首席指揮者、2022年9月からはプラハ放送交響楽団の首席指揮者・芸術監督に就任予定とのこと。1曲目はウェーベルンの「夏風の中で」。冒頭の弦楽器の最弱音が、ピンと張った絹糸のような艶と透明感があった。だが、その後の展開には、もったりしたところがあり、冒頭の最弱音から期待したほどの緊張感はなかった。2曲目は、当初...ポペルカ/東響

  • 高関健/東京シティ・フィル

    高関健のサントリー音楽賞受賞記念コンサート。オーケストラは東京シティ・フィル。1曲目はルイジ・ノーノ(1924‐90)の「2)進むべき道はない、だが進まねばならない…アンドレ・タルコフスキー」(1987)。初めて聴く曲だ。事前にナクソスミュージックライブラリーを覗くと、2種類のCDが登録されていた。そのどちらだったか、ともかくひとつを聴いた。だが弱音過ぎてほとんど聴こえない。時々ドンと打楽器が鳴る。そんな音楽が約30分続く。正直いって面喰った。ところがその曲が、実演で聴くと、おもしろかった。終始微細な音が聴こえる。オーケストラは7群に分かれて配置される(ステージ上と2階のP、RA、RB、LA、LB、Cの各ブロックの後方)。そのどこかから、たとえていうと虫の声のような、かすかな音がたえず聴こえる。時々打ち鳴...高関健/東京シティ・フィル

  • 久生十蘭短篇選

    久生十蘭(ひさお・じゅうらん)(1902‐1957)には根強いファンがいるようだ。わたしはいままで読んだことがなかったが、先日、あるきっかけから、岩波文庫の「久生十蘭短篇選」を読んだ。同書には15篇の短編小説が収められている。一作を除いて、あとは戦後間もないころの作品だ。どの作品にも戦後社会が色濃く反映している。わたしは学生のころ(もう50年も前だ)、野間宏などの第一次戦後派の作品を読んでいた(もうすっかり記憶が薄れているが)。今度、久生十蘭の作品を読んで、戦後社会の実相というか、庶民的な感覚は、久生十蘭の作品のほうがよく反映されているのではないかと思った。戦中に書かれた一作をふくめて、15篇すべてがおもしろかったが、あえてベストスリーを選ぶとしたら、どうなるだろうと自問した。お遊びのようなものだが、やっ...久生十蘭短篇選

  • 藤岡幸夫/東京シティ・フィル

    フェスタサマーミューザで藤岡幸夫指揮東京シティ・フィル。いかにもサマーコンサートらしいプログラムだ。1曲目はコープランドのクラリネット協奏曲。クラリネット独奏は現代のレジェンド、リチャード・ストルツマン。御年80歳だ。椅子に座ってこの曲を吹くストルツマンの姿が目に焼き付いた。椅子に座ってとはいうが、ストルツマンは元気だ。演奏終了後、カーテンコールでは小走りに出てくる。勢いあまって指揮台の先まで行ってしまい、Uターンする。満場の喝さいを浴びたのち、また小走りに引っ込む。拍手が鳴り止まないので、もう一度小走りに出てくる。今度も指揮台の先まで行ってしまい、Uターンする。お茶目だ。2曲目はチック・コリアの「スペイン」。「アランフェス協奏曲」の第2楽章のテーマがチラッと出てくる曲だ。それをジャズの六重奏(ピアノ、ベ...藤岡幸夫/東京シティ・フィル

  • 「芸術家たちの住むところ」展

    用事があって、さいたま新都心に行った。ついでなので、うらわ美術館に行ってみた。JR浦和駅から徒歩10分くらい。ロイヤルパインズホテル浦和という大型ホテルの3階にあった。同美術館を訪れるのは初めてだ。同美術館では「芸術家たちの住むところ」展が開催中だ。浦和には多くの画家が住んだらしい。関東大震災の後、東京から多くの画家が浦和に移ったためだ。当時は「鎌倉文士に浦和絵描き」という言葉があったそうだ。本展はそれらの画家30人余りの作品を展示したもの。前期と後期に分かれている。いま開かれているのは後期だ。2章構成になっている。第1章は「描かれた土地の記憶」。のどかな田園地帯だった浦和の自然やレトロな洋館建築など、いまでは懐かしい風景を描いた作品群だ。浦和には縁がないわたしにも楽しめる内容だった。第2章は「戦後:それ...「芸術家たちの住むところ」展

  • ルートヴィヒ美術館展

    国立新美術館で「ルートヴィヒ美術館展」が開催中だ。20世紀美術の流れを概観する展示になっている。ルートヴィヒ美術館はドイツのケルンにある美術館だ。ケルンには主要な美術館が二つある。主に20世紀以降の作品を展示するルートヴィヒ美術館と、主に19世紀以前の作品を展示するヴァルラフ=リヒャルツ美術館。ともにドイツの有力な美術館だ。本展は序章プラス7章で構成されている。第1章は「ドイツ・モダニズム――新たな芸術表現を求めて」。第一次世界大戦前後から第二次世界大戦までのドイツ美術の動向を追っている。さすがにドイツの美術館だけあって、簡潔ながら目配りのきいた内容だ。日本で当時の作品をまとめて見る機会は少ないので、感銘深い。具体的にいうと、ドイツ表現主義の二大潮流である「ブリュッケ」と「青騎士」の画家たち、そしてその周...ルートヴィヒ美術館展

  • 鈴木秀美/オーケストラ・ニッポニカ

    「芥川也寸志メモリアルオーケストラ・ニッポニカ」が設立20周年を迎えた。それを記念して、今年度の3回の演奏会は日本人作曲家の作品を特集している。昨日はその第1回。1曲目は古関裕而(1909‐1989)の交響詩「大地の反逆」(原典版)(1928)。古関裕而の習作といっていいと思う。暗雲渦巻くロマン派風の作品だ。プログラムノートによれば、本作品は1923年に発生した「関東大震災に題材をとったといわれる」そうだ。それにしても「大地の反逆」という大仰な題名には、まだ10代の古関裕而の気負いが感じられる。微笑ましいというべきか。2曲目は早坂文雄(1914‐1955)の「ピアノ協奏曲第1番」(1948)。これはわたしには当演奏会の「発見」だった。隠れた名曲だと思う。全2楽章で、第1楽章は滔々たる流れのレント、第2楽章...鈴木秀美/オーケストラ・ニッポニカ

  • アレホ・ペレス/読響

    アレホ・ペレスの読響定期初出演。アレホ・ペレスはアルゼンチン生まれだ。ヨーロッパ各地でオペラ、コンサートの両面で活躍中のようだ。1曲目はペーテル・エトヴェシュ(1944‐)の「セイレーンの歌」(2020)。明るい光が射すような透明感と、なんともいえない軽さのある曲だ。年齢を重ねたエトヴェシュのいまの心象風景だろうか。演奏はその曲想を伝える名演だったのではないか。アレホ・ペレスはエトヴェシュのアシスタントを務めたことがあるそうだ。エトヴェシュの音楽をよく知っているのだろう。言い換えれば、エトヴェシュが認めるほどの才能の持ち主かもしれない。2曲目はメンデルスゾーンの「ヴァイオリンとピアノのための協奏曲」。メンデルスゾーン14歳のときの作品だ。演奏時間約37分(プログラム表記による)。堂々たる作品だ。おもしろい...アレホ・ペレス/読響

  • METライブビューイング「ハムレット」

    METライブビューイングでブレット・ディーンBrettDeanのオペラ「ハムレット」を観た。ブレット・ディーンは1961年オーストラリア生まれの作曲家・ヴィオラ奏者。1985年~1999年にはベルリン・フィルのヴィオラ奏者をつとめた。2000年に退団してフリーの作曲家になった。「ハムレット」は2017年にイギリスのグラインドボーン音楽祭で初演されたもの。冒頭、ほとんど無音の中に、ハムレットが「ornottobe」と呟きながら登場する。その直後、荒れ狂ったような音楽が展開する。すさまじいテンションだ。それが延々と続く。正直、疲れる。だが、それがハムレットの胸中に吹きすさぶ嵐の表現だと気付いたとき、その音楽が受け入れられるようになる。音楽はその後、徐々に変容する。本作品はシェイクスピアの原作を真正面からとらえ...METライブビューイング「ハムレット」

  • ノット/東響

    ノット指揮東響の定期演奏会。1曲目はラヴェルの「海原の小舟」。率直にいって、アンサンブルをもう一歩練り上げてほしかった。どこがどうというのではないが、じっくりした余裕が感じられなかった。2曲目はベルクの「七つの初期の歌」。独唱はドイツのソプラノ歌手のユリア・クライター。密度の濃い歌唱だった。オーケストラの伴奏ともども、この作品のニュアンスを隅々まで表現する演奏だった。プロフィールによると、クライターはオペラとリートの両面で、ヨーロッパ各地で活動しているらしい。じつは「七つの初期の歌」はわたしの好きな曲だ。いままでは漠然と、初期のベルクの良さが詰まった曲だと思っていたが、沼野雄司氏のプログラム・ノートを読んで、もっと具体的に、わたしの好きな理由が解き明かされたように思った。若干長くなるが、プログラム・ノート...ノット/東響

  • 新国立劇場「ペレアスとメリザンド」

    新国立劇場の「ペレアスとメリザンド」を観た。同劇場で観たオペラ公演の中で、これは屈指の密度の濃さを誇る公演だと思った。そう言った矢先に、トウキョー・リングという破格の公演があったとささやく内なる声が聞こえるので、これは同劇場に固有の、どこか冷めた、劇場の大空間を満たせない公演とは一線を画すと言い直そう。演出はケイティ・ミッチェル。エクサンプロヴァンス音楽祭とポーランド国立歌劇場の共同制作だ。幕が開くと、音楽が始まる前に、白いウェディングドレスを着たメリザンドが、大きな荷物をもって部屋に入ってくる。ホテルの一室だろうか。疲れた様子だ。結婚式の途中で逃げ出したように見える。メリザンドはベッドに横になり、眠ってしまう。音楽が始まる。以下はメリザンドが見た夢だ。いわゆる夢落ちではなく、最初にこれは夢であると告げら...新国立劇場「ペレアスとメリザンド」

  • 広上淳一/日本フィル

    夜に日本フィルの定期演奏会を控えたその昼に、安倍元首相が銃撃されたというニュースが飛び込んだ。それ以来、時々刻々と入るニュースに釘付けになった。夕方には死亡が報じられた。容疑者は「特定の宗教団体」をあげ、その恨みからやったと供述しているらしい。「特定の宗教団体」がどこなのかは、もちろん気になるが、それ以上に、本件は政治テロではないことが重要だと思った。安倍元首相は政治信条に殉じたのではない。故人を貶めるつもりでいうのではないが、つまらない亡くなり方をしたのだ。そんなことを思ったのは、その夜の日本フィルの定期演奏会で聴いたブルックナーの交響曲第7番(ハース版)の第2楽章で、だった。ワーグナーの逝去の報に接してブルックナーが書いた荘重な音楽。どうしてもそこに安倍元首相の逝去を重ねてしまいがちだが、それは短絡的...広上淳一/日本フィル

  • アンドレ・ボーシャン+藤田龍児「牧歌礼讃/楽園憧憬」展

    東京ステーションギャラリーでアンドレ・ボーシャン(1873‐1958)と藤田龍児(1928‐2002)の二人展「牧歌礼賛/楽園憧憬」が開催中だ。フランスの画家・ボーシャンと藤田龍児とは、生きた時代も場所も異なり、なんのつながりもない。あえていえば、ともに素朴派の画家と分類される点が共通するくらいだ。その素朴派という分類も、後世の人々がそう呼ぶだけで、画家本人が素朴派をめざしたわけではない。だが、それはともかく、本展には二人に共通する明るくポジティブな活力がみなぎっている。それだけではなく、二人のちがいも見えてくる。チラシ(↑)に使われた作品は、上がボーシャンの「川辺の花瓶の花」(1946)だ。背景はフランスののどかな丘陵地帯だろう。手前に大きな花瓶がある。実際にそこに花瓶があるというよりは、背景の自然と花...アンドレ・ボーシャン+藤田龍児「牧歌礼讃/楽園憧憬」展

  • MUSIC TOMORROW 2022

    N響恒例のMUSICTOMORROW2022。今年は直前になって外国人演奏家の来日中止が相次いだ。そのため、後述するように、曲目の一部が中止され、またソリストが変更された。それでもよく開催にこぎつけたものだ。1曲目はドイツ在住の作曲家・岸野末利加(きしのまりか)の「WhattheThunderSaid/雷神の言葉」(2021)。独奏チェロをともなう曲だ。独奏チェロはケルンWDR交響楽団(旧ケルン放送交響楽団)のソロ・チェロ奏者のオーレン・シェヴリン。題名の「WhattheThunderSaid」はT.S.エリオットの詩「荒地」からとられている。岸野末利加は「スペイン風邪と第1次世界大戦で荒廃した当時のヨーロッパで書かれた美しい詩は、100年後の今、パンデミック、気候災害、人種、宗教、経済の様々な問題を抱え...MUSICTOMORROW2022

  • 新潟県柏崎市訪問

    6月初めに新潟県柏崎市に行った。従兄の連れ合いが亡くなったから。20代のころから難病と闘ってきたが、ついに力尽きた。それでも69歳まで生きた。本人は生前に「こんなに生きられるとは思わなかった」と言ったことがある。実感だったろう。お通夜は夕方からなので、ゆっくり東京を発てばよかったのだが、何年ぶりかの柏崎訪問なので、早めに行って市内を歩くことにした。といっても、行くあてもないので、柏崎市立博物館に行った。そこに行くのは初めてだ。駅前からタクシーで行くと、美しく整備された赤坂山公園の奥にあった。思いがけず、木喰上人の仏像が何体か(8体だったか9体だったか)展示されていた。木喰上人は柏崎に1年ほど滞在したらしい。柏崎で88歳の米寿を迎えた。そのときの作だ。微笑を浮かべた人間味のある木喰仏が完成した感がある。上掲...新潟県柏崎市訪問

  • ヴァイグレ/読響

    ヴァイグレ指揮読響の日曜マチネーシリーズへ。1曲目はワーグナーの「さまよえるオランダ人」序曲。バランスのとれた音の構築が快い。冒頭のホルンのテーマが細かくアクセントをつけられ、音楽を推進する。その一方で、おどろおどろしいところがないのはヴァイグレ流か。2曲目はモーツァルトのファゴット協奏曲。ファゴット独奏はフランス人の女性奏者ロラ・デクール。デクールはヴァイグレが音楽監督をつとめるフランクフルト歌劇場のソロ・ファゴット奏者だ。ファゴット特有の、どこかとぼけた音色と、滑らかな音の連なりが楽しめた。アンコールがまた楽しかった。だれの、なんという曲かはわからないが(読響のホームページにも会場の東京芸術劇場のホームページにも載っていない)、ユーモラスで、むしろコミカルな小品だ。最後は奏者が短いフレーズを繰り返しな...ヴァイグレ/読響

  • ヴァイグレ/読響

    ヴァイグレ指揮読響の定期演奏会。1曲目はルディ・シュテファンの「管弦楽のための音楽」。ルディ・シュテファンは1887年生まれのドイツの作曲家だ。第一次世界大戦に従軍して、1915年に戦死した。戦死した場所は現在のウクライナだ。プログラムを組んだときにはもちろんロシアのウクライナ侵攻は始まっていないので、たんなる偶然に過ぎないが、現在のウクライナ情勢のもとでこの曲を聴くと、今こうしている時も多くの若者が命を失っている現実と重なる。「管弦楽のための音楽」は1912年の作品だ。近年ではキリル・ペトレンコがベルリン・フィルを指揮して演奏している。またこの作曲家には「最初の人類」(1914年)というオペラがあり、最近ではフランソワ=グザヴィエ・ロトがオランダ国立歌劇場で上演している。ヨーロッパで再評価が進んでいる作...ヴァイグレ/読響

  • 秋山和慶/日本フィル

    ラザレフがウクライナ情勢を受けて来日を見合わせた。代役を引き受けたのは秋山和慶。それに伴い曲目も変わった。フランス音楽名曲選のようなプログラム。名匠・秋山和慶が日本フィルからどのような演奏を引き出すか。日本フィルの常連の指揮者にはないタイプなので、興味と期待が高まった。1曲目はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。アーティキュレーションの明確な演奏だ。細部に緻密なニュアンスが施されている。リズムが明瞭に浮き出る。ムードに流れる演奏ではなく、音楽的な構造がしっかりしている。一言でいうと、秋山和慶らしい演奏だ。それが日本フィルには新鮮だ。フルート独奏は首席奏者の真鍋恵子。当夜のプログラム中、3曲にフルート独奏がある。フルート奏者にはおいしいプログラムだ。2曲目はラヴェルの(両手のほうの)ピアノ協奏曲。ピアノ...秋山和慶/日本フィル

  • 川端康成「眠れる美女」

    川端康成の「眠れる美女」は紛れもない傑作だと思う。三島由紀夫は新潮文庫の解説で「この作品を文句なしに傑作と呼んでいる人は、私の他には、私の知るかぎり一人いる。それはエドワード・サイデンスティッカー氏である」と書いている。解説が書かれたのは1967年11月だ。その後の時代の趨勢により、今では本作品を傑作だと思う人はもっと増えているような気がする。なぜそう思うかというと、本作品のグロテスクな幻想性が、今の時代に一層精彩を放つようになっていると感じるからだ。正確にいえば、本作品には執筆当時の時代的な制約を受けた部分と、時代を超越した部分があり、時代を超越した部分が、今でも異彩を放っていると感じるのだ。物語の場所は、海辺の一軒家。その家は老人限定の娼家だ。美女が全裸で眠っている。おそらく強い睡眠薬を飲まされている...川端康成「眠れる美女」

  • 「自然と人のダイアローグ」展

    国立西洋美術館で「自然と人のダイアローグ」展が始まった。ドイツの中部の都市エッセンにあるフォルクヴァング美術館の作品と国立西洋美術館の作品を並置したユニークな企画展だ。フォルクヴァング美術館には何度か行ったことがある。エッセンには演目および演出の両面で意欲的な活動を続けるエッセン歌劇場があり、わたしはオペラを観るために行ったのだが、昼間は暇なので、フォルクヴァング美術館で過ごした。静かな美術館の中で好きなだけ作品に向き合うことのできる贅沢な時間だった。本展に来ている作品には記憶に残っている作品もあれば、見たことのない(あるいはすっかり忘れている)作品もあるが、それらの作品が、質量ともに同等に、国立西洋美術館の作品と並べて展示され、しかもその並べ方が、ある共通のテーマにしたがって、そのテーマを深掘りするよう...「自然と人のダイアローグ」展

  • 川端康成「掌の小説」

    今年は川端康成の没後50年に当たる。そうか、もうそんなになるか、と思う。川端康成の自死は衝撃だった。若い作家ならともかく、功成り名遂げた老作家が……。没後50年を記念して、文学展が開かれたり、新たな研究が発表されたりしている。その報道に接するうちに、久しぶりに川端康成を読みたくなった。とはいえ、「伊豆の踊子」、「雪国」、「山の音」といった代表作には触手が伸びなかった。まず手に取ったのは「掌の小説」だ。「掌」は「てのひら」とも「たなごころ」とも読める。新潮文庫の解説では「てのひら」と読ませている。「掌の小説」とは(短編小説よりもさらに短い)掌編小説のことだ。川端康成の掌編小説は一作当たり平均して400字詰め原稿用紙で7枚程度だ(作品によって多少のちがいがあるが)。川端康成は作家生活の初期から晩年にいたるまで...川端康成「掌の小説」

  • SOMPO美術館「シダネルとマルタン展」

    新宿のSOMPO美術館で「シダネルとマルタン展」が開催中だ。ウクライナ情勢その他で気持ちがすさみがちな昨今、せめて絵をみて、穏やかな日常を取り戻したい、と思うむきには格好の展覧会だ。本展に展示されているアンリ・ル・シダネル(1862‐1939)とアンリ・マルタン(1860‐1943)、そして本展には展示されていないが、エドモン・アマン=ジャン(1858‐1936)などの一群の画家たちは、親しく交わりながら、1890年代以降、旺盛な制作を続けた。その時期は、象徴派、フォービスム、キュビスムなどの新潮流が台頭する時期と重なった。それらの先鋭的な画風に比べると、シダネルもマルタンもアマン=ジャンも、印象派およびポスト印象派の末裔に位置付けられ、目新しさに欠けた。そのため美術史的にはあまり語られることはなかった。だが、...SOMPO美術館「シダネルとマルタン展」

  • カーチュン・ウォン/日本フィル

    カーチュン・ウォン指揮の日本フィル。1曲目は伊福部昭の「リトミカ・オスティナータ」。ピアノ独奏は務川慧悟(むかわ・けいご)。照度が高くてカラフルで桁外れのエネルギーが放射される演奏だ。伊福部昭の作品は今までいろいろな演奏を聴いてきたが、その枠を超える新時代の演奏という気がする。カーチュン・ウォンの全身から発散するリズムと日本フィルの燃焼、そして務川慧悟の叩きだす音の総和が、わたしの経験値を超える演奏を出現させた。務川慧悟は期待の若手だ。アンコールにバッハのフランス組曲第5番から第1曲「アルマンド」が演奏された。安定走行の高性能な車のような、運動性の高い演奏だった。伊福部昭の熱狂的な演奏と、バッハの安定した演奏と、たぶん他にもさまざまな可能性を秘めているだろうピアニストのようだ。2曲目はマーラーの交響曲第4番。第...カーチュン・ウォン/日本フィル

  • ブライアン・ファーニホウの音楽

    東京オペラシティのコンポージアム2022。今年の作曲家はブライアン・ファーニホウ(1943‐)。現代音楽の大御所だ。「新しい複雑性」という言葉がトレードマークのようについてまわる。わたしもその譜面の一例を本で見たことがある。面食らうような譜面だ。リズムを勘定する気も起らない。そんな譜面がどんな音で鳴るのか。もっとも、コンポージアム2022に先立ち、ファーニホウの曲を何曲かYouTubeその他で聴いてみた。どこをどう聴いたらよいのか、つかめなかった。これはお手上げだ、というのが正直なところだった。でも、コンポージアム2022に行ってみた。実演を聴いたときに、なにかがつかめるか。そしてもうひとつ、演奏がアンサンブル・モデルンであることにも惹かれた。フランクフルトを拠点とする現代音楽の演奏集団だ。ファーニホウを聴くに...ブライアン・ファーニホウの音楽

  • 新国立劇場「オルフェオとエウリディーチェ」

    新国立劇場の新制作「オルフェオとエウリディーチェ」。演出・振付・美術・衣装・照明のすべてを勅使河原三郎が担当した。なので、様式的に統一がとれている。上掲の画像(↑)にあるような白百合がつねに舞台上に置かれている。美しいが、葬儀のときの祭壇のようでもある。舞台上には大きな円盤がある。オルフェオ、エウリディーチェ、アモーレ(愛の神)の3人は円盤上で歌い、演じる。合唱は床の上だ。考えてみると、このオペラは奇妙なオペラだ。冥界でオルフェオとエウリディーチェが出会う、ドラマのその最高潮のときに、オルフェオはエウリディーチェを見てはいけないという制約がある。原作の神話がそうだからしかたがないのだが、その奇妙な制約のもとで、オルフェオとエウリディーチェの情熱の高まりと、その一方での距離感を表すには、狭い円盤上で右往左往するこ...新国立劇場「オルフェオとエウリディーチェ」

  • ノット/東響

    東京交響楽団(以下「東響」)の定期会員になった。長らく在京の5つのオーケストラの定期会員を続けていたが、そのうちの1つをやめて、東響の定期会員になった。昨日は初めての定期演奏会。今までも年に1、2度は東響を聴く機会があったが、定期会員になると、身の入り方がちがう。1曲目はリヒャルト・シュトラウスの「ドン・ファン」。16型の大編成だが、その音は後期ロマン派の豊麗な音ではなく、カラフルな照明が点滅するような鮮明な音だ。最初は違和感があったが、次第にその音の個性が呑み込めた。2曲目はショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番。ピアノ独奏はペーター・ヤブロンスキー。トランペット独奏は首席奏者の澤田真人。しっかり構築された見事な演奏だったが、この曲の諧謔性というか、わたしの言葉でいえば、ヨレヨレの悪ふざけ、もっといえば馬鹿々...ノット/東響

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