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真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのため http://blog.livedoor.jp/chlife/

キリストへの祈りは生活の現場から誰にでも自由にできます。キリストは呼び求める人と共に居る方です。

このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。 クリスチャン2世として、教会の問題、カルト化の問題について、傷を受けた皆さんと共に祈り、教会・教派主義からの脱出と信仰について、自立を目指す現実的視点で触れていきます。

仁保裕介
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小倉北区
出身
東村山市
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2013/01/20

  • 感情を乗せないと、自分も他人も心は動かない。心を縛る聖書主義ではなく、「聖書が生きた言葉になる」ためには?

    私は「自分が相手に喜ばれる、会って話して嬉しいと思ってもらえる」などと全く思えないですし、そんな発想が子どもの頃からずっとありません。人は自分の感情を乗せた上で、様々に考え分析して対応します。それで対立、行き違いはありますし、当然よい出会いや意気投

  • 心も生活も仕事も全部大事。蓋をせず毎日本音でキリストと

    過去の心も生活も、今の心も生活も仕事も同じように大事です。過去の自分のことを大切に思うことが難しいのが今の苦しい原因であることが多いです。それも自分では分からない心のどこかで無意識に働いていて苦しめられます。それを悪霊とか罪とか言う福音派や聖霊派の教会

  • 愛すること、隣人の心と命のために思うこと、それは自分を見つめること、自分を見つけること、そのためのキリスト

    自分の中からのものが、隣人をいくらかでも生かし助け救っているか、信仰と救いを得ている自分を生かし確かにしているか、絶えず自分で問う習慣は有益です。無意識にでもできるようになればと思います。嘆きと痛みの最中で大変でそれどころでなくても、いつかは実を結ぶ

  • 牧師が確信なく不安だから、他人に厳しく強く語る

    講壇上から確信めいてえぐるように説教するのが好きな牧師たちがいます。中身はそもそも当たり前のこと言っているだけなのですが、頻繁にそれしか考えられないように洗脳するように繰り返し言って支配します。誰もが分かっていることをあえて迫るのは、その牧師の心に神

  • 祈りは誰でもどんな人でもしていい

    人の良さ悪さは関係なく人が悪くても、祈ればその祈りは良いものです。祈り願いに心の真実があれば、何でも祈って神に言っていい。祈りは届いています。自分のことなら自分自身の思いや発想や出来事や周りや環境やめぐり合わせを期待していい。すぐのこと、また何十年あ

  • キリストが共にいる条件は

    キリストが共にいる条件は、愛とか親切とか仕えるとか奉仕とか伝道とか聖霊の満たしではなく、悲しみの現実を見ている、体験しているなら、必ずその現場に、どんな人にでもキリストは共に居るということ、ただそれだけです。キリストを感じられない、愛されているか赦さ

  • 聖書にある神の言葉「高価で尊い」の意味

    自分の価値を自分で高く見ることができますか…そのためには…神は「あなたはわたしの目には高価で尊い」と私たちの人生の間に言い続けています。それぞれ人によっての天国のイメージ、神様のイメージで、自己イメージが違ってきます。もし、実際に天国に行って、そこ

  • ぞっとする福音派聖霊派教会の『信徒囲い込み』

    悪い教会による囲い込みで、人を外に出さない、他の教会に行かせない、転会させない、日曜に仕事させない、神第一という名の教会と牧師ファースト『あなたは、この教会に神によって導かれ救われた。神に招かれ召されて、この教会でキリストの御体の器官として目に見え

  • 聖書や聖霊をかたる虐待としての『一方的に与える愛(アガペ)』『個人の時間・金銭・労力・心・友人関係への搾取』を避け、心の痛手から回復するために

    相手の気持を考えて、相手がしてほしいことをする。でも、親切にした相手が詐欺師で、搾取しかしない虐待人間だったら…カルト化した教会や牧師がそれです。深入りすると訓練と称してどんどん付け込まれて、心も生活もお金も支配されてしまいます。それも自分で納得づ

  • キリストの血はどこまでも通っている

    『血が通う』ネットで辞書を見ると血が流れている。 生きている。 公式的でなく、こまかい配慮を伴って物事を行なうさまにたとえる。事務的ではない人間らしさがあって、情感が通じ合う。物事を単純化できる信仰に引きこもるより、重層的で複雑な個人

  • 人の愛に願望で依存しがち…普遍的な愛、神の本質である愛とは。心を守るには…

    人に期待するというより、個人的に会うキリスト、個人的に満たされ聖霊に照らされた聖書の愛の価値観に触れたい。決して離れない神の手は、教会でというより、個人の出来事や困難の時に祈ったりして知ります。教会や牧師の教えで安心するのは結局は人に期待していることに

  • どんなワガママでも祈っていい、キリストとのつながり

    どの人もキリストに知られ、心も命も痛みも喜びも、その人が感じる以上にキリストが共にいて感じていること。自分で「おかしい、変だ、罪かも」否定して抑えて捨てようとしてきた様々な思いや感じ方を、その当時からキリストはどんな思いも感情も含めてあなたを100%受

  • カルトに信じ込まされ侵された領域とは別の場所

    カルト化した教会と牧師に脅しのように罪と滅びと救いと使命を教えられ反論は許されず、やり込められて押された焼印が届かない場所、そこにこそ私たちのキリストが居られます。カルトやブラックに心を削られて、もう何も残っていないと思っても、必ず残っている場所は

  • 人が『主の道に立ち帰る』のではなく、ふさわしくない自分の所に主の方からすでに来ていること

    内側に入り、心と思いに働く父キリスト聖霊。内側から作用がなければ信仰に意味はありません。余計な聖書主義教育や律法から脱して、キリストご自身をただ愛し慕い求めることだけにシンプルに心を定められれば、主のものが内側に満ちます。福音派聖霊派の教育は心に

  • 「宗教があぶない、あやうい」と思われている理由と2世問題

    宗教・信仰によるネグレクトや終末の神の裁き、地獄のビジュアル的な教え、親子に必要な愛が律法的に変容してしまう、そんな子供時代があると、その時、子は親を100%信じ愛を欲して気づかずに虐待を受け入れ、気づかない傷によってその後もトラウマが積み重なり、社

  • 『日常の語りかけで知る聖書の意味』と『教会の聖書研究』が一致しない時

    日常思うことを小さくつぶやくようにキリストに聞いてみる。印象があったり、言葉が浮かんだり。置かれている状況が思う以上に厳しく、必要以上に気負ったり、振りかぶったりの時は、思い詰めることがないように、違う視点が見つかったり。聖書の意味が、誰かに教えられた厳

  • 頭の計算で動いて、心をカラにして楽になる打算的な人たち

    親切や人情が見えても、それが実は計算である人がいます。彼らに打算的に対応されるのを予想して、こちらも計算づくで抑えて対応しないと、いつまでも誠実さや心の養分を吸い取られ搾取されることがあります。やられた方は裏切りと感じますが、やった方はただの計算であ

  • 福音派聖霊派が与える『冷めた愛』・伝道

    救いに『聖書的』『決心の告白』『罪の悔い改めの告白』という条件を付けて説得することが伝道になってしまう福音派聖霊派のクリスチャンは辛いです。そもそもクリスチャンとはキリストにある者という意味なのに、派と共にある者では。人をキリストから遠ざけているという

  • 人は皆、自分と周りを救うノアの箱舟の管理人

    ただし、わたしはあなたと契約を結ぼう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟にはいりなさい。 またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二つずつを箱舟に入れて、あなたと共にその命を保たせなさい。創世記 6:18‭-‬19 JA1955https://bib

  • 素直な思いを神に言うことで自分を見つけること。それが祈りの肝

    神は人が口に出す前に、すでに人の心を知っています。置かれている状況もすべてわかっています。そばにいるキリストと会う。ただそれだけが信仰で、祈りです。祈れば会っているし、祈るだけでもう信仰があります。祈りは寺社や教会堂に行く必要はなく、僧侶

  • 「無理しない、頑張らない」が分からなくなるマインドコントロール

    勉強や仕事ではいくらか無理して結果を残しますが、クリスチャン個人の生き方の結果は無理な犠牲や能力に依らない部分があります。祈りも信仰もただキリストの名を呼ぶだけで成立します。キリストに会う条件をいろいろ付け加える教会はすべて悪いものです。

  • 教会・牧師に惑わされず、横にいるキリストに会う日常を

    キリストの伴いは、福音派・聖霊派の言う感動や確信や悔い改めや決心とは違い、日常の普通のことの中にあります。牧師や証し者から聞いた話に感動して高揚したり、悔い改めたり、腑に落ちるとか、世間とは違う特別なことは、神の臨在や存在の証明になりません。感動や

  • マインド・コントロールと『自発的な教会依存・自由献金・教会奉仕』

    癒しと現実を生きることを目的にキリストを信じ祈り交われば、キリストのすべてが私たちを愛し生かし守り癒すためだと分かっていきます。信仰のはじめは傷がうずいて文句と恨みのつぶやきばかりでもいいのです。キリストだけは裏切らないとさえ思えます。祈り、すがるよう

  • 赦さず縛る『愛』は愛ではない。必ず赦し受け容れるのが愛。隠れ場に行き心をケアする祈りを

    誰かを信頼できることが親切心や愛の基盤になります。信頼も自信もあまりなくても出会いで段々と育っていくし、親は子供から、先輩は後輩から信頼されて育てられ自信を持つ面は必ずあります。ただ自分以外の何からも学ばない人には全く成長がありません。叱責し縛る人は

  • 無意識で求めている心の満たし、足りないと感じるもの素直に生かして

    心の声は否定しないようにしましょう。生きて出あうことには良いこと悪いこと両方あり、その反応と結果も、良いもの悪いものが私たちの中に当然に自然に現れます。生きることに含まれるすべてをそのまま持って神に会えば、それが信仰です。福音派聖霊派では、無意識にあ

  • 心の深い傷をどうする? 誰かの言いなりではない一心な関係は神や友人を身近にする

    親が負っている傷を連鎖させない意思と自覚があれば、その毒は軽くなります。でも報復心や自己充足や認証願望を抑えられず、弱く言いなりの子どもや隣人に犠牲を強いて慰みにする人もいます。子どもの愛や、純愛や、キリストを知った初めの愛は、何も疑わず、ちゃん

  • 意思の強さと相手を尊重する思いやり

    意志の強さ、押しの強さは、身を守ることと実行力に必要です。誰かに期待だけするのではなく、意志を伝え、相手がイメージできるまで説得することは個人の普通のことです。実行し事を成すのが我の強さだけでなら愚かです。他人を理解し生かすまでが、本当の意思の強さ

  • キリストは人の心にあるものをすべて知って、それでも愛される。

    キリストが愛する時に、決して目をつぶることはなく、本人が知らないことまですべてを見透かし見通して知って、そこから心から慈しみ伴い愛し友となるキリストです。人は開き直るのではなく、キリストが共に居る人生で様々な人に出会い経験することで、自分や人のあり方

  • 周りのことを何でも許し受容すると愚かに。愛と呼べるものはなに?

    健全で素直な違和感や疑問が人を成長させるもの。『あの人は間違いない』とか、他人を無批判に信じることが人を愚かにします。信頼ではなく放縦です。これは教会でよく起こっています。でも、誰かを信じたい、信じて安心したいのも人情。『ただ信じる』のではな

  • 真の救い・回復は十字架の傷のただなかに

    そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。コロサイ人への手紙 3:17 JA1955https://bible.com/bible/81/col.3.17.JA1955教会を信じる人とキリストを個人的に

  • 祈りの質の回復

    形だけの祈り、儀式ばった祈りから心のどんなつぶやきもすべて神様が聞いてくれる、うなずき深く理解し共に担ってくれる、と思うことへ飾られた花より無造作に咲く野花の群れの中のひとつのように、そんな日常で祈る、自然に私は変えるのに10年以上、恐怖が無くなる

  • 聖書の読み方

    祈り、父キリスト聖霊に心を向け、自分ひとりで自分を清い捧げ物として神様だけに差し出しましょう。牧師や誰かに言われてイメージするのではなく、教会からも心を離して、ひとりでただ真っ直ぐ純粋に神様を求める心を見つめて素直に出して。神様は何もない人の捧げ

  • 『聖書的』『聖書主義』に固執してカルト化する教会から外へ出る

    牧師は教会員に経済的支援をされ生活を依存しています。役に立っていない場合、支援しなければいいだけです。什一献金を神への義務とか公然か暗黙のルールにしている時点で警戒すべきです。福音派聖霊派の教会からのカルト的な精神的支配の問題は数えきれない証言がネッ

  • 良心・善意・正気を保ち、脅し・追い込み追い詰め・嘘をはっきり見分けて、実生活で充実した心で前向きになり自由に発想が拡がる方を向いて

    幸せって、人と自分と家族の良心や善意を信じられること。信仰で言えば「神はキリストの十字架ゆえに人のありままを受け容れて愛する方」のはず。厳しくして強迫的に奉仕献金をさせて、できないことを責め裁くようなことをするのは神ではなく、人生を破綻させるのは神

  • 『トラウマから逃れるために他人を犠牲にする連鎖』を意識できる弱さは幸い

    毒親というワードが最近言われています。親的な信頼を寄せる人からの冷たさ無関心・突き放し・しごきなど信頼の裏切りからのトラウマがあると、無意識にいつも他人を試してしまいます。それも気を許せる信頼できる相手に対してや、下に見て自分に従うかついてくるか試したい

  • いつでも自由であること。愛と本気は聖人ではなく人として。

    いつでも自由の足掛りを期待できること。いつでも逃げ出せる用意がある生き方が大事です。それは逃げるべき場に居てもいつでもキリストを目の前に置いていることです。逃げる足掛り、自由の足掛りをちゃんと分かって持っていることは必要な知恵です。職場や教会の問題、ま

  • ”救いか?滅びか?” この二択縛りで自分も隣人も赦せず愛せない?

    ただ信じなさいと言われ、教会に通い、奉仕し、祈り…それでもキリストを近くに感じられない、愛されている実感がない、聖霊の働きが分からない、すべてを赦されすべてが新しくなったという約束が自分からは遠く感じる…救われているのか不安になる…10年クリスチ

  • 神キリストがそれぞれの人の現実に例外なく共にいて重荷を負うので、人は神と共にその現実を生きる。人の願望・理想と十字架

    現実は苦しい。これは動かせません。人は現実から逃げたい、負いたくないという願望を誰でもどこかで持っています。カルトに近いほど、マインドコントロールで、現実を快適にすべき、そのために祈りと教会と聖書で救うべきという物語で理想と思わせようとします。無意識

  • 福音派・聖霊派のカルト化教会やカルト宗教の脱出後、不安定になる心を安定させるには

    脱会の後、脱マインドコントロールの過程で、安定する関係性を離れて拠り所がなくなり孤独が続く場合、不安と圧迫や虐待の記憶のフラッシュバックで生活が不安定化することがあります。家庭環境や成育歴、個性、性格、社交性によって違うでしょうが、できるだけ孤独を

  • 福音派宗教2世…人に迫られた『罪の悔い改め』で教会で命を奪われ、キリストに会って命を見つけて

    十字架刑死で贖罪がされ、復活で新たな命に生きるまったく新しくされました。それはキリストによって神に真っ新(まっさら)と認められ、神に新しい人として出会うことその表れはキリストが私の深いところにある黒い罪の姿を一生共に負って一緒に居ることここ

  • 祈りの先にあるもの

    『聖書教』信者はキリストにある者(クリスチャン)なのかどうか、他人にも自分にも『聖書通りか』チェックし言葉狩りをして裁くほどマインドコントロールが進みます。裁いてはいけないと知りながら、もう言葉狩りは止まらないのです。親切や感謝の言葉もマニュアル

  • 幸せは難しくないシンプルな関係から

    私たちは、人とも神とも関わりたいと思うのは、単純にシンプルにうれしいと感じる時、安心できると感じる時があるからです。互いに満たされて、喜びや充実感を共有できる関係は素敵です。神様も単純に人の愛、子どものような愛を喜び受け取るとキリストは言います

  • 真の信仰者は自我をしっかり持ちましょう~それが真の賜物につながり

    良いものにはちゃんと執着すべきです。自分らしく執着できる自由な興味を見つけて、安心できて縛られない内面から湧く個性を持ちましょう。人間的なものを越える上からの賜物は霊がいきいきと生きるものです。律法的に自我を無くしても、周りの評価や裁きがあるから不安

  • 2世からしたら福音派も聖霊派もカルトと呼べる支配がある。キリストに個人的に救ってもらうまで叫び脱出する

    教祖が『自分が再臨のキリストだ』と言うカルト教団があって、それを否定して、牧師が『神のみ声を聞き分けられる』と言う、牧師が『聖書のことばに従う教会をつくる』と言う、その牧師のことばも、キリストを認めている証拠にはなりません。『神と悪魔、信仰と罪、

  • 福音派宗教2世…『私は自分のことが嫌い』『自分を憎んでいる』『自分なんかダメ』悔い改めという名の自己否定すると落ち着く

    宗教2世で親や教会の大人に縛られた価値観…やりたいことを罪だ余計だ清さだ常識だと言われて、教会や社会で通用しないからと脅され行動を縛られてきた。常識から外れた感情的な大人の言葉さえ細かく逃さず信じて守らないと自分は地獄行きで他の誰かも不幸にすると思い込む

  • キリストはすぐそばに、手を触れる近さに、私たちが立ち 座るその隣にいつも

    キリストは私たちひとりひとりの存在をいつくしみ、いつも手をのばして触れています。私たちの心が恨み嘆き泣いている時も、残酷に自分と他人を思う時でも、病に沈む時も、ゲームしたり体を動かしている時も、喜んでいても悲しんでいても、勤勉でも怠けても、正しくても間

  • キリスト教信仰の肝は、小さく弱く弾き出された人が受けられるキリストの伴いと愛です。

    無条件の救い、つまりどんな条件も付けずに救われるのが本来の信仰です。救いは求めれば与えられるものです。でもどうすればいいのか分からないから、決まりがある宗教に行って、宗教の決まりに従おうとしてしまいます。「どうすればいいんですか」と聞く人がいても、「キ

  • キリストを迎え入れたら罪は重荷ではなく、負えるものに変わります。

    赦しとは、キリストが、人の罪ゆえの刑死を負ったから人が罰されず、神の目が人に罪を認めないこと。正直な人は、それでも自分が罪人だと知っています。私たちが決心して、神の正しさの側に居たいから祈りと思いを沿わせようとして救いを意識する、その前からキリ

  • 私たちはどこでキリストに会うか

    あなたのみむねを行うことを教えてください。あなたはわが神です。恵みふかい、みたまをもってわたしを平らかな道に導いてください。詩篇 143:10 JA1955https://bible.com/bible/81/psa.143.10.JA1955神のみこころを行いたいと心から願い、みこころを行うことに飢え渇い

  • 神の声は思いや印象であり

    神の声は思いや印象であり私は耳を通しては聞こえません。神の声は、キリストが現実に寄り添って生き、死にまで従い世の人に赦しを教えた愛と一致します。現実と赦しを知るほど、現実と赦しを知る他人との関わりを知るほど、神の声の意味、神との交わりが分かります。

  • 自然・必然・妥当な軸を選ぶこと、感じ方を大切に

    他人を上か下か正しいか愚かか無知かで分けるのは虚しい感情や感覚や傷や宗教や律法で人を切り分ける前にどんな人とも「感じ方の柔らかい相互共有」をお互い感じ合いたい一方的な支配や押しつけは、縛りや傷や敵意を生むが、そうしないと気が済まない衝動、思い通りにし

  • ナチュラルで居られる必然と常識の軸が貫く導き

    他人と自分のために 妥当に行動するのは必ず平和につながってる、と普通は信じられる。すべてに互いに生きるために進む必然の糸、思いやりや常識の当然と思う線があるものです。そこを外す余計なものを見分けていれば良い人でいられる。常識、必然、妥当、適当

  • 自分の芯がキリストであること

    「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」とパウロは言います。自分の闇を知っており、迫害者サウロだった心をいつも思えたし、そこに現れたキリストをいつも生き生きと感じていたと思います。見せかけの信仰ではない人のことばで、人間の決意や熱意では

  • 何もしていなくても愛されている…キリストへの信頼

    素の自分は、どんな人なのか神の前に出て、自分は何かを成し遂げたという思いは持てません無理です。神と知り合えば、自分が成し遂げたなど決して思いません。でも人として生きるには、毎日何か小さいことでも積み重ねて成し遂げる実感は必要なんです。自意識やアイデ

  • キリストは永遠、不変の愛、普遍で誰にでも漏れ無く寄り添う~自由に生かされる幸せを願う

    人が心で何を求めて、何を願い、何をしたいのかキリストはいつでもどこにも居てそれを知りどの人も助けます。聖霊は風のよう、聖霊が存在しないところはありません。解放を願う私たちもそうしたいし、そうすることで縛りからの解放が確かに。律法に縛られた人の心は、

  • 将来の自分にも数分後の自分にも期待してあげる 養分を自分に与えつづけるには

    回復とか治るとかは、もとの健全だった状態に戻ることを指す気がしますが、長い心の虐待からの解放は、違う地平を探す気ままな旅のようだと思います…休みや趣味はもちろん十分時間をとり、人との関わりも豊かにしていろいろ吸収し、学びや仕事も養分にするのが理想です

  • いつまでたっても愛を感じられないのはなぜ?

    笑顔でやさしくて感じが良く付き合いやすく、それが信仰や愛を演じている結果なら渇きます…人と関わって一緒にいろいろやることが好きで、それで楽しいことや安心を得ていたら…『親ガチャで当たり外れ』なんて流行りましたが、周り次第で幸不幸の運命が決まると今ま

  • 自分の感じ方を受け止めてあげる。内側から湧くものを生かす

    疲れてやる気がでないこと、時間によってうつ状態があっても、日常の繰り返しの一部として自分の一部として当然あるものとして受け取ると先に進める場合でも休むこと、何もしないこと、何もできない時間も自分に必要なこと辛い時も休む時もキリスト・聖霊は私たちを離

  • 良いものを自然に与えられる環境はとても幸せ。神に出会い信じればそれが心と霊に始まるはず…

    社会に出て本物を目指す本物が説得力を持ち、裏打ちの何も無い思い込みや理想は簡単に見抜かれ、足元を見られ利用されるかスルーされる仕事も信仰も本物なら説得力をもつはず信仰の本物って何?教会はみんなで何かするところになっていて、神に出会い

  • 本当のことを見つけてなすべきこと…戦う姿勢に

    宗教2世として福音派で育ち、教会どっぷり、滅びと終末の恐怖と脅迫感、聖書を浅く薄く利用する教会権威のカルト化、脱カルトの経験で、人生は戦場だったし、今も私の心の中では戦争は続いています。この戦いはもう脱出のためではありません。家や宗教から外に出て、いろ

  • 神様は組織よりも個人を大事に思っているようです

    神様は組織よりも個人を大事に思っているようですそれを不思議に感じることもあります人は『ここ(会社・家・教会)あってのあなただ。ここでしか生きられず、ここで生かされてはじめて本当の自分を知る』と言い、外に出たら生きられないと思い込ませますがそんな

  • 大ざっぱでフワッてした『安息』『平安』に安住して、現実と探求心を忘れないで

    独裁化した教会も国も同じで、後で律法と伝道奉仕献金の義務で絞め上げられるのに、流行り?のメッセージでは「安心して、信頼して、すべてから解放されたことを味わいましょう」と言います。もちろん現実の世界は厳しく戦いが普通にあります。また聖書は、キリス

  • 教会という名の戦場、奴隷状態からの自由

    映画スパルタカスを見ました。古代ローマで奴隷として生きてきた人々の思いが描かれています。奴隷に自由はないだから死は奴隷にとって自由をもたらす自由なローマ市民にとって死は絶望だが奴隷にとって死は解放だだからいつも死へのきっぷを握って戦える「自由人

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