ポルトガルは、その最盛期といえども、 東洋貿易の一部分をになっていたにすぎず、 主役はいぜんとしてイスラーム商人だったのです。 やはり、アフリカ南端をまわる航海は、 地中海ルートにくらべて危険が大き
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
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ポルトガルは、その最盛期といえども、 東洋貿易の一部分をになっていたにすぎず、 主役はいぜんとしてイスラーム商人だったのです。 やはり、アフリカ南端をまわる航海は、 地中海ルートにくらべて危険が大き
一六世紀にポルトガルはコショウだけでなく、 アジアからシルク・茶・宝石などを西欧へ運送し、 一時はいちじるしく冨みさかえました。 しかし、東南アジア史の専門家である 永積昭(ながづみあきら)氏は、 「
つぎのパスコ=ダ=ガマの、 インドへの航路ですが、 さいわいにケニア沿岸のモンバサという港で、 アラブ大のイブン=マージという 水先案内大の援助を得て、 ついにインド南端の貿易港 カリカットへ到着でき
インド、エジプト、イタリアの商人が コショウの貿易ルートによって、 もうけていましたが、一六世紀はじめから、 これにわりこんできたのがポルトガル人でした。 ポルトガルは、一二世紀に イベリア半島の西
西欧人は、長いあいだ 牧畜に依存して生活してきた関係から、 大量の肉をたべる習慣が 今日までつづいてきています。 そのために、西欧人は 殺した家畜の肉を保存することについて、 むかしから大きな関心を
政治の混乱はありましたが一方では、 新しい農業や耕作技術が発展しました。 特に水田農業が重要で、 水利施設の整備や灌漑技術の 進歩が行われました。 また農業土木の発展により、 農地の拡大や効率的な
倭冠は鎌倉時代にも見られましたが、 西国の土豪が組織した海賊、 いわゆる前期倭冠は、 米と奴隷の略奪を目的として 朝鮮半島から支那の北部、 さらに南部にまで進出して猛威をたくましくし、 倭冠の至るとこ
室町幕府の財政は、 外国とくに明との貿易による利益が、 大きな財源となりました。 蒙古の来襲後も、 九州や瀬戸内海沿岸の住民は、 さかんに支那や朝鮮と私貿易を行っていました。 この貿易には莫大な利
義満は室町幕府の最盛期を 築くことに成功しました。 明徳の乱で山名氏を押えたのは、 その第一歩です。山名氏は、 因幡・伯耆など五カ国の守護を兼ねており、 一族合せて十一カ国の守護を領し、 日本六十余
1467年(応仁1)から十一年間続いた内乱は、 細川勝元と山名持豊(宗全)との対立に, 将軍足利義政の跡継ぎ問題, 斯波・畠山両管領家の相続争いがからんで, 諸国の守護大名が細川方の東軍と 山名方の西軍に
日本の統一的支配者の座を獲得した義満は、 その晩年、上皇になることに意を注ぎます。 その証左は、夫人の日野康子を 後小松天皇の准母としたことで明白です。 夫人が准母なら、夫の義満は 自動的に天皇の
足利義満(あしかが よしみつ)は、 延文3年8月22日(1358年9月25日)の生まれで、 室町時代前期の室町幕府第3代征夷大将軍です。 明徳3年(1392年)、 楠木正勝が拠っていた河内国千早城が陥落し、 南朝勢力
南朝軍で唯一優勢を誇っていた九州の懐良親王軍が、 東上の軍をおこしましたが、 途中で瓦解しました。 諸国の直冬(ただふゆ)党も勢いを失い、 天下三分の混沌状態は克服されつつありました。 義詮が十三年
室町幕府は、 足利氏の将軍による武家政治機構です。 足利尊氏は、九州から東上して 光明天皇を立てた直後、 鎌倉幕府の遺老二階堂是円(ぜえん)らに 政治の大綱を諮問しました。 その答申が一七条から成る
南北両朝和平合体の時機が到来しました。 これまでも、足利直義や佐々木高氏などが、 吉野に和平の働きかけをしたこともありましたが、 吉野では、 北朝の解消、足利氏の帰順を条件としない限り、 交渉に応じ
楠木正成の子正行(まさつら)が 河内四条畷(なわて)の戦いで戦死したことは、 吉野方には大打撃であり、 天皇は一時吉野を出て 大和の賀名生(あのう)に遷られたほどでした。 九州では、 征西将軍宮懐良(かね
吉野の朝廷では、 恒良親王.尊艮親王を奉じて 北国に下った新田義貞は、 越前金ガ崎城で敗れ、 ついで藤島に戦死し、 北畠顕家は義良親王を奉じて 陸奥から再び西上しましたが、 和泉石津の戦に戦死し、 頼
尊氏は九州で菊池武時の子武敏を破り、 少弐・大友・島津等の諸豪族をしたがえて 東上の準備を整え、 海陸両道から大軍を率いて京都に向います。 楠木正成はこれを摂津湊川に迎え戦って死に、 千種忠顕・名和
尊氏は好機訪れたとみてとり、 征夷大将軍に任ぜられて時行を討つことを請うたが、 許されなかったので勅許を待たずに東下し、 時行を討って鎌倉を回復しました。 新政権に不平を抱き、 幕府の再興を望む武士
中興事業に協力した武士の多くは、 幕府に対して不平を抱く人々です。 彼らは幕府を倒すことによって、 自己の地位を安定させ、 さらにそれがよりよくなることを期待したので。 天皇の理想を理解し、 それ
儒教の精密なそして哲学的に高度に発達した 新解釈は「新儒教」とよばれます。 新儒教が完成するのは、 もうすこしあとの宋代ことですが、 この学派のもとは、 一〇〇〇年よりも以前に遡ることができます。
イスラム教徒および蛮族の圧力に対する 支那、インド、西欧の反応を比較すると、 西欧におきた変化は 支那、インドの二者よりも はるかに根源的なものでした。 支那は文明の基本的な点ではなんら乱されること
隋王朝による 支那の再統一(五八九年)後まもなく、 短期間の内戦を経て、 唐王朝(六一八-九〇七年)が支配権を握りました。 そして唐の次にはやや長い空位期間の後、 宋(九六〇―一二七九年)がつづきま
アジアでは何世紀も前に支那人が開発した、 綿密な人手を要する耕作法により、 多大の労苦を伴いながら耕地が ゆっくりと拡がっていきました。 農民は、溝を掘り、土手を築き、 無数の小川から水を揚げ、 そ
グレゴリー改革は、 精神の刷新をもたらしました。 その影響について、堀米庸三は 『西欧精神の探求』において 「グレゴリー改革は……さまざまな学問興隆の きっかけをあたえました。 批判的精神のおこりはこ
西欧では、 十一世紀後半から十二世紀初めにかけて、 「グレゴリー改革」とよばれる キリスト教の刷新がおこなわれました。 長年、世俗の権力 (ローマ市の貴族やローマ周辺の有力者)が ローマ法王を決定す
西欧の土はしめり気が多く重いので、 たがやすのが困難で、 一〇世紀までは、牧畜が生産の主流で、 農業はひどくたちおくれていました。 農業よりも牧畜に依存していたため、 中世の前半には、西欧に都市は
馬のたすきのつぎに発展の基礎になったのは、 ペルシアからつたわってきた水車の利用です。 馬の利用で小麦の生産量が増大すると、 麦を粉にする(パンをつくるために) 能率のよい製粉方法として水車が利用さ
世界史の流れをながめると、 一〇世紀末がユーラシアの各地域における、 大きな転換期となっています。 この時期に形成された多くの文明が、 その後の世界史に大きな影響をおよぼしているのです。 たとえば
極東と西洋における交易と商業は、 社会のほとんどすべての階層に影響を与えました。 農民も、都市生活者も、地主も、 自分たちの使う道具その他を、 小商人、職人、小売人から買うことができたのです。 つ
インドでも、中東でも、 極東や西欧のような入り組んだ自然の 水路の網の目は存在しませんでした。 日本の刻みの多い海岸線、 支那の運河と川は、 西欧と同じくらい水上輸送にとって 都合のよい条件でした。
極東(日本や支那)と、西欧の商業の特色は、 大衆用の未加工商品が 大きな重要性を持っていたことです。 大量消費用の物資、毛織物、穀物、餅、鉄などが、 地域間の交易で扱われるようになりました。 金持
西欧での森林の開墾、新しい村の建設、 古い耕地のまわりの新耕地の拡大などは、 十世紀ごろから十四世紀のなかばまで、 急速に進行しました。 その後、黒死病が荒れ狂い(一三四七-五一年)、 市場、小作料
日本の文化史における 急激な転換や変化は、 西欧の体験におとらず激烈で、 またそれが急激にやってくるという点では その上を行っていたと言えます。 しかし、両者間には類似点だけでなく、 ちがいもありま
外への地理的拡大と相まって、 西欧の内部でも生活のあらゆる層で 大きな統合が行われ、 目ざましい成功をかち得ましたが、 それでも西欧流の制度や文化パターンを、 永続的な鋳型の中に固まらせるまでには い
一〇〇〇年までに、西欧は、 日本の武士階級に似た騎士を持つにいたりました。 これら騎士たちの装備や訓練も武士と同様に、 世界のかなりの軍事兵力に勝っていました。 撥土板(はつどばん)つきの犂を使った
十字軍とは、11世紀から13世紀にかけて、 キリスト教徒がイスラム教徒に対して行った 聖地回復のための軍事遠征のことです。 十字軍は、教皇や君主の呼びかけに応じて、 西欧から南と東に向かいましった。
東方にむかっては、ドイツの騎士たちが、 エルベ川を東に越えて 帯状の地帯を征服、植民しました。 船を使ってバルト海沿岸を飛石づたいに進み、 プロシャ、リヴオニア(現代のラトヴイア)、 エストニアを占
世界史上最も劇的でめざましい変化だった イスラームの自己変容と拡大は、 一〇〇〇年から一五〇〇年の間におこりました。 それについでおこった変化は、 未来に対してはそれよりさらに重要な 意味を持ってい
平安時代末期の保元の乱や平治の乱 といった朝廷の内部抗争などに端を発する 貴族階級の衰退と武士階級の飛躍的な台頭の後、 1185年に初めての武家政権となる 鎌倉幕府が成立しましたが、 東日本を勢力下におい