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学問の萌芽
グレゴリー改革は、 精神の刷新をもたらしました。 その影響について、堀米庸三は 『西欧精神の探求』において 「グレゴリー改革は……さまざまな学問興隆の きっかけをあたえました。 批判的精神のおこりはこ
2023/05/19 05:00
グレゴリー改革
西欧では、 十一世紀後半から十二世紀初めにかけて、 「グレゴリー改革」とよばれる キリスト教の刷新がおこなわれました。 長年、世俗の権力 (ローマ市の貴族やローマ周辺の有力者)が ローマ法王を決定す
2023/05/18 05:10
西欧の農業
西欧の土はしめり気が多く重いので、 たがやすのが困難で、 一〇世紀までは、牧畜が生産の主流で、 農業はひどくたちおくれていました。 農業よりも牧畜に依存していたため、 中世の前半には、西欧に都市は
2023/05/17 08:07
水車の導入
馬のたすきのつぎに発展の基礎になったのは、 ペルシアからつたわってきた水車の利用です。 馬の利用で小麦の生産量が増大すると、 麦を粉にする(パンをつくるために) 能率のよい製粉方法として水車が利用さ
2023/05/17 05:00
西欧文明の誕生
世界史の流れをながめると、 一〇世紀末がユーラシアの各地域における、 大きな転換期となっています。 この時期に形成された多くの文明が、 その後の世界史に大きな影響をおよぼしているのです。 たとえば
2023/05/15 05:00
市場の支配権
極東と西洋における交易と商業は、 社会のほとんどすべての階層に影響を与えました。 農民も、都市生活者も、地主も、 自分たちの使う道具その他を、 小商人、職人、小売人から買うことができたのです。 つ
2023/05/12 08:34
海上輸送の技術
インドでも、中東でも、 極東や西欧のような入り組んだ自然の 水路の網の目は存在しませんでした。 日本の刻みの多い海岸線、 支那の運河と川は、 西欧と同じくらい水上輸送にとって 都合のよい条件でした。
2023/05/11 05:10
極東と西欧の商業
極東(日本や支那)と、西欧の商業の特色は、 大衆用の未加工商品が 大きな重要性を持っていたことです。 大量消費用の物資、毛織物、穀物、餅、鉄などが、 地域間の交易で扱われるようになりました。 金持
2023/05/10 09:13
西欧の経済的強化
西欧での森林の開墾、新しい村の建設、 古い耕地のまわりの新耕地の拡大などは、 十世紀ごろから十四世紀のなかばまで、 急速に進行しました。 その後、黒死病が荒れ狂い(一三四七-五一年)、 市場、小作料
2023/05/09 05:10
日本と西欧の類似
日本の文化史における 急激な転換や変化は、 西欧の体験におとらず激烈で、 またそれが急激にやってくるという点では その上を行っていたと言えます。 しかし、両者間には類似点だけでなく、 ちがいもありま
2023/05/08 05:00
変転する西欧
外への地理的拡大と相まって、 西欧の内部でも生活のあらゆる層で 大きな統合が行われ、 目ざましい成功をかち得ましたが、 それでも西欧流の制度や文化パターンを、 永続的な鋳型の中に固まらせるまでには い
2023/04/28 05:00
西欧の情勢
一〇〇〇年までに、西欧は、 日本の武士階級に似た騎士を持つにいたりました。 これら騎士たちの装備や訓練も武士と同様に、 世界のかなりの軍事兵力に勝っていました。 撥土板(はつどばん)つきの犂を使った
2023/04/27 10:07
十字軍
十字軍とは、11世紀から13世紀にかけて、 キリスト教徒がイスラム教徒に対して行った 聖地回復のための軍事遠征のことです。 十字軍は、教皇や君主の呼びかけに応じて、 西欧から南と東に向かいましった。
2023/04/27 05:10
西欧の拡張
東方にむかっては、ドイツの騎士たちが、 エルベ川を東に越えて 帯状の地帯を征服、植民しました。 船を使ってバルト海沿岸を飛石づたいに進み、 プロシャ、リヴオニア(現代のラトヴイア)、 エストニアを占
2023/04/26 06:46
西欧と日本
世界史上最も劇的でめざましい変化だった イスラームの自己変容と拡大は、 一〇〇〇年から一五〇〇年の間におこりました。 それについでおこった変化は、 未来に対してはそれよりさらに重要な 意味を持ってい
2023/04/24 06:44
幕府と朝廷
平安時代末期の保元の乱や平治の乱 といった朝廷の内部抗争などに端を発する 貴族階級の衰退と武士階級の飛躍的な台頭の後、 1185年に初めての武家政権となる 鎌倉幕府が成立しましたが、 東日本を勢力下におい
2023/04/21 05:00
奥州藤原氏
奥州藤原氏は、 特産品の金や馬で栄えてきた一族です。 源平の争いの間も、じっと静観し、 力を温存してきました。 第3代奥州藤原家当主、 藤原秀衡(ふじわらのひでひら)は 冷静沈着、剛の者と言われ、
2023/04/20 05:10
平治の乱
保元の乱での天皇側の源義朝は 上皇側の源為義(義朝の父)の 助命を懇願しますが願いは聞きいれられず、 処刑されます。 さらに同じ天皇側であった 平清盛ばかりが厚くもてなされ、 義朝の不信感は高まって
2023/04/19 18:18
義仲と義経
後白河法皇の子、以仁王(もちひとおう)が 平氏討伐の兵をあげたのです。 挙兵後すぐに以仁王は 平氏に負けて亡くなってしまいます。 ところが、 これをきっかけに源頼朝が立ち上がると、 それに呼応して
2023/04/19 08:49
源頼朝
平治の乱で源氏が敗北した際、 源頼朝は 敵方の嫡男(ちゃくなん・家を継ぐ者)として、 当然処刑されるはずでした。 しかし、「死んだ息子に似ている」との思いから、 情けをかけてほしいと平清盛に懇願した
2023/04/18 05:10
今様
今様(いまよう)は、 日本の歌曲の一形式です。 今様というはやり歌を、白拍子・遊女が歌い、 流行しました。 庶民はもとより貴族にまで愛され、 宮中の宴会でも歌われました。 後白河上皇も今様を好ま
2023/04/17 05:00
資本主義のはじまり
鎌倉時代に資本主義があったかどうかは 議論の余地がありますが、 鎌倉時代には、 重商主義という考え方がありました。 重商主義とは、国家の富を増やすために、 貿易を通じて金銀を蓄えることを目的とした政
2023/04/14 05:00
徳政令
奈良・京都の文化圏から遠く離れた 鎌倉に幕府を置くことにより、 新たに武士や庶民の文化が花開きました。 問注所をつくつたことで土地争いが減少し、 相続には分割制度が採用されて 所領は細分化されました
2023/04/13 05:10
問注所
鎌倉時代、源頼朝が鎌倉殿として 武士の頂点に立ちました。 平氏は朝廷に入り込み、 朝廷を通じて支配しようとしましたが、 鎌倉幕府は、 京都の朝廷、地方の荘園や公領はそのままにして、 幕府と主従関係を
2023/04/12 05:00
鎌倉時代
鎌倉時代の特徴として、 公的な歴史書が書かれなくなったことがあります。 『今鏡』『水鏡』『愚管抄(ぐかんしょう)』 などが書かれていますし、 『吾妻(あづま)鏡』という 鎌倉幕府の一貫した流れを書いた歴
2023/04/11 05:10
武家政権
義経は壇ノ浦の戦いの後、 都にもどり後白河法皇に官位を与えられたために、 鎌倉の頼朝と対立せざるを得なくなりました。 頼朝は都に兵を送り、法皇を問い詰め、 義経を捕えるために、自分の部下(御家人)を
2023/04/10 05:00
平家滅亡
仁安(にんあん)二(一一六七)年、 平清盛が太政大臣となり、 平氏政権を打ち立てました。 藤原氏にとってかわった政権でしたが、 福原遷都など無謀な動きをして、 没落を早めました。 初めは朝廷のボディ
2023/04/07 05:00
保元の乱
保元元年(1156年)7月に 皇位継承問題や摂関家の内戦で、 朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、 双方の衝突に至った政変です。 崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流されました。 この朝廷の内部抗
2023/04/05 05:00
末法思想
釈迦の死後が「正法」の時代、 次が「像法(ぞうほう)」の時代で、 最後に来るのが「末法(まっぼう)」の時代です。 この世はもう終わりではないか、 という末法思想がはびこったのです。 十一世紀に入ると政
2023/04/04 05:10
保元・平治の乱
後三条天皇の後、 天皇に即位したのは白河天皇です。 この白河天皇が始めたのが 院政と言う新しい政治のやり方です。 院政とは、天皇の座を明け渡すが、 自らは上皇(じょうこう)として 変わらず政治を
2023/04/03 05:00
後三年の役
今度は前九年の役で、 その力を貸してくれた清原一族の内部で (1083年~1087年)に争いが起こります。 清原一族の跡継ぎ問題、土地の所有問題です。 この内乱に力を貸して収めたのが源義家です。
2023/03/31 05:00
前九年の役
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の 蝦夷(えみし)討伐の後、 東北地方は朝廷により律令体制に組み込まれました。 しかし、時の流れと共に、 東北はまた波乱を起こし始めます。 東北は京都から離れ
2023/03/30 05:10
錬金術
錬金術の起原は古く、 紀元前3世紀ごろのアレクサンドリアでも その研究がなされています。 錬金術はもともと卑金属を貴金属つまり 金に変えるのが第1の目的ですが、 不老不死の薬をつくるということも、 し
2023/03/29 10:34
源氏と平家
九世紀の末に、 関東で勢力を作った武士は平氏の始祖、 高望王(たかもちおう)です。 元々関東の役人として赴任した高望王でしたが、 武士として、新たな生き方を目指しました。 そこで関東で勢力を広げ、
2023/03/29 08:08
武士団の成長
10世紀になると、各地で武士が成長し始めます。 彼らは高貴の出自であるという家柄と、 国司としての公法的な権威から、 地方の人々の名望を集め、 在任中から公私の田を営んで一大領主となり、 その所有地
2023/03/28 05:10
武士の始まり
日本の摂関政治の時代は、 貴族寺院の経済は主に荘園に依存していました。 律令の政治機構の多くは有名無実となり、 官職は政治の機関というよりも 貴族のための収入源となり、 朝廷の儀式や社寺の造営の費用
2023/03/27 05:00
魔術
機械時計の技術では ヨーロッパは支那をはるかにしのいでいます。 最初の機械時計は錘りの落下を利用するものですが、 時計には時間をきざませる脱進器が必要で、 その脱進器の製作が難題でした。 11世紀に
2023/03/24 05:00
支那の技術
ところで、ヨーロッパ中世後期の技術は、 ほとんどが支那が先がけているのです。 支那とヨーロッパとまったく無関係の場合、 原理だけが伝えられた場合、 実物がもってこられた場合など、 いろいろありますが
2023/03/23 05:10
中世後期の技術
土木、建築、紡績、織布そのほか 数多くの技術が古代から それぞれの時代の社会の状態におうじて 発展してきており、 それは中世にはいってもつづいています。 古代におけるように 奴隷を多く使えなくなった
2023/03/22 05:00
近代科学への転回
アリストテレスの哲学は12、13世紀に、 改めて強固にキリスト教神学と結合されました。 だが、そのようなことと関連し、 すでに12世紀にはヨーロッパに 新しい科学の精神が動きはじめ、 急速にひろがりつつあ
2023/03/20 05:00
ヨーロッパ科学の曙光
スペインにおいて イスラーム文化圏とキリスト教文化圏とが接触し、 ヨーロッパ人が改めてギリシャ文化に 重大な関心をもつ動機をつくりました。 とくに1085年にトレドが奪回され ギリシャの学術書のアラビア
2023/03/17 05:00
ノルマン征服
1066年、ギヨーム2世は エドワード懺悔王の崩御に伴う後継者争いで 王位継承者を主張、ブリテン島に侵攻し、 ハロルド・ゴドウィンソンの勢力と戦いを繰り広げ、 最終的にこれをヘイスティングスの戦いで討ち取
2023/03/16 05:10
イブン・スィーナー
ペルシャの哲学者イブン・スィーナーは イスラム世界が生み出した最高の知識人と評価され、 同時に当時の世界の大学者です。 980年8月末にサーマーン朝の徴税官 アブドゥッラーフ・イブン・アル=ハサンと そ
2023/03/15 05:00
零の発見
特に数学に就いていえば、 アラビアの数学者たちは 代数学と三角法とを作り上げたのです。 「代数学」に当たる英語Algebraは 実にアラビア語から出ているのです。 始めに0(ゼロ)の概念とその扱いを 厳密
2023/03/13 05:00
カリフの国
アラビア人といえば、 今ではヨーロッパ人の圧迫の下に 見る影もなく喘いでいますが、 七世紀頃の彼等の組先は、 コーランを片手に剣をふり廻して、 東はインドの西部から 西は北アフリカを経てスペインにまで
2023/03/10 05:00
イスラムの勃興
ローマ崩壊(四五五)のころから、 教皇シルヴュスチル二世(九九九-一〇〇三在位)のもとで 西洋がはじめて知的に役興するまでの(暗黒時代)は、 ヨーロッパ文明史上の いわば不毛の時代であるとみなされてい
2023/03/09 16:47
アラビア科学
中世における科学の光は、 東方から射してきたのです。 この点でも、オリエントの科学の意義は大きく―― 古代ギリシャの学問の伝統はアラビアの イスラーム文化においてうけつがれ、発展し、 やがてスペインを
2023/03/09 16:46
科学の暗黒時代
中世は科学にかんして暗黒時代であった、 とよくいわれます。 暗黒時代という言葉があてはまるのは、 10世紀を終えるころまでの西ヨーロッパの世界のことです。 キリスト教神学とそれの支柱となった哲学とが
2023/03/07 05:10
アラブ・東ローマ戦争
イスラム軍(アッバース朝)とは、 804年のクラソスの戦い、 806年のアッバース朝軍の 小アジアへの侵攻で戦火を交えたが敗北し、 貢納金を支払う条件で和約しました。 811年には第一次ブルガリア帝国に侵攻
2023/03/06 05:00
東ローマ帝国
717年に即位したイサウリア王朝の皇帝レオーン3世は、 718年にイスラーム帝国軍(ウマイヤ朝)を撃退 (第二次コンスタンティノポリス包囲戦)。 以後イスラーム側の大規模な侵入はなくなり、 帝国の滅亡は回
2023/03/03 05:00
ヨーロッパ中世
日本の平安時代に対応する中世のヨーロッパは、 割拠した諸候の領土によって細分され、 社会矛盾がしだいに深まり、 封建領主たちはいきづまりを打開する 方策をさぐっていました。 そのころ、東のアラビア人
2023/03/02 05:10
藤原道長
道長が左大臣にして内覧宣旨を得てからは 政局が安定しました。 道長は.一粂・三条・後一条・後宋雀・後冷泉 四代天皇の外舅または外祖父として、 ときに摂政となり、ときには閑白に等しい権 (正式の閲自任
2023/03/01 05:00
安和の変
基経のなき後、 藤原氏と外戚関係のない字多天皇は、 文章生出身の菅原道真を蔵人頭に登用し、 次の醍醐天皇の時は 左大臣藤原時平と並んで右大臣に登用して、 藤原氏の専制を抑制する策をとることができました
2023/02/28 08:46
摂関政治
八一〇(弘仁元)年、 武家の藤原薬子が平城上畠の重詐をはかって、 兄の藤原仲威とともに起した薬子の乱は、 藤原式衆の没落を招いたが、この時、 これに備えて嵯峨天皇の設けた 蔵人所の頭(とう)となった藤原
2023/02/27 05:00
平将門の乱
下総から勢力を広げる平将門と 常陸で国司と対立する 藤原玄明(はるあき)が手を結び、 939年に反乱に発展した争いのことです。 豪族などが各地で成長した武士団のうち、 桓武天皇の曽孫の高望王から 平姓を
2023/02/23 05:10
道真の亡霊
延喜8年(908年)に藤原菅根が病死し、 延喜9年(909年)には藤原時平が 39歳で病死しました。 延喜13年(913年)には右大臣源光が 狩りの最中に泥沼に沈んで溺死しました。 延喜23年には醍醐天皇の皇子で
2023/02/22 05:00
菅原道真
宇多朝末にかけて、左大臣の源融や藤原良世、 宇多天皇の元で太政官を統率する 右大臣の源能有ら大官が相次いで没し、 寛平9年(897年)6月に 藤原時平が大納言兼左近衛大将、 道真は権大納言兼右近衛大将に任
2023/02/21 05:10
字多天皇
京都南部に遷都してきたばかりの長岡京で 都の造営責任者・藤原種継が暗殺されました。 矢で射られて翌日に死亡した事件です。 暗殺事件は、早良親王を担いだ者たちの 桓武天皇体制への謀反であると考えられ
2023/02/20 05:00
藤原種継の暗殺
785年9月23日の夜、 京都南部に遷都してきたばかりの長岡京で 都の造営責任者・藤原種継が暗殺されました。 矢で射られて翌日に死亡した事件です。 この一大事件によって、 事件に関与した人物たちが 斬首
2023/02/17 05:00
早良親王
早良親王は桓武天皇の弟で、 785年の藤原種継暗殺事件に連座して流罪となり、 無実を訴えたが配流される途中で憤死しました。 それを恨んで日本史上最強最悪の怨霊になったのです。 母親は髙野新笠(たかのに
2023/02/16 10:26
遷都の理由
平安京は延暦十三年の遷都から、 鎌倉に幕府が開かれるまでのおよそ四百年間、 名実ともに政治史の舞台でした。 平安京への遷都を 天皇に建議したのは和気清麿です。 清麿は、道鏡が皇位をうかがったとき、
2023/02/15 05:00
平安京遷都
平安京は、京都盆地のほぼ中央に 南北三十八町(約五・三キロ)、 東西三十二町(約四・六キロ)の 都城として設定されています。 新京の中央部を商流していた鴨河は、 京を洪水から守るために、 大工事の結
2023/02/14 05:10
国風文化
もともと神道と仏教は性格が異なります。 神道は日本人の共同体のための宗教であり、 仏教は個人を対象とする宗教です。 しかし、人間が個人として生き、 同時に共同体の中で生きていくためには、 この両方
2023/02/13 05:00
本地垂逆説
天台、真言の両宗は 奈良時代の南都諸宗とは異なって 山岳に伽藍(がらん)をつくり、 修行の道場にしました。 それまでの都市の仏教とは 明らかに違う特色がありました。 そこには山岳信仰と結びついた 修
2023/02/10 05:00
求聞持法
山中に篭もり、虚空像菩薩の真言 (ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリ キャマリ ボリ ソワカ)を百万遍唱えれば 一切の経典の意味が心の中にはいり、 その智恵を得ることができる 求聞持法(ぐも
2023/02/09 05:10
曼陀羅
密教は曼陀羅('まんだら)という、 密教の宇宙を象徴的に表現する 方法を見いだしました。 成立は五、六世紀で、 宇宙と一体化した人 間の悟りの境地の表現でもあり、 空海は、それを支那からの帰国にさいし
2023/02/08 05:00
宇宙との一体化
支那に留学し、長安で 本格的な密教を恵果(けいか)に学んだ空海は、 奈良仏教の到達点であった 華厳宗の個と宇宙の同一化に立脚しながらも、 宇宙のもつ生命性を重視、 生命体としての宇宙と 人間である自己と
2023/02/07 05:10
入我我入
仏教にとっての最も重要な問題は 煩悩をどう扱うかです。 密教は人間的な欲望もまた 宇宙生命につながるものとして、 否定はしません。 煩悩を含んだこの世界のすべてを肯定し、 現実世界の中に真理の世界
2023/02/06 09:54
正統真言密教
空海が唐で師事した人物は恵果で、 体得した密教は、正統真言密教です。 支那では唐末(900年代中頃)には 早くも密教の伝統が途絶えました。 1200年代中頃には 本国インドの仏教も滅亡するので、
2023/02/02 08:31
真言宗
弘法大師空海(774―833)は 804年に唐に留学し、 密教を専門に勉強して帰国しました。 816年、高野山に金剛峰寺を開き、 日本真言宗として旗揚げしました。 その教えは、インド正統密教で、
2023/02/01 05:00
恵果
唐の都長安の青龍寺に、 恵果(けいか)という僧侶がいました。 この人が密教の教えを受け継ぐ一人でした。 空海はこの人に出会うのです。 空海は最澄などが帰国したあとも唐にとどまって、 恵果のもとで密
2023/01/31 05:10
空海
最澄と並ぶ平安仏教の大きな存在のもう一人は、 空海です。 四国の讃岐(さぬき)の人で、 当時の大学である大学寮に入り、 儒学などを学んでいました。 そして、『三教指帰(さんこうしいき)』 という本を著
2023/01/30 08:33
円仁
最澄のあと、 唐から帰国した円仁(慈覚(じかく)大師)が 延暦寺の座主(ざす)になりました。 彼も比叡山の地位を高めるのに 力があった人です。 慈覚大師といえば、 東北や関東の多くのお寺の開祖 という
2023/01/27 05:00
維新天台宗
天台宗(てんだいしゅう, Tiantai)は、 隋を発祥とする大乗仏教の宗派のひとつです。 天台宗の名称は、 実質的開祖の智顗(ちぎ)((538年―597年)が 天台山に住んでいたということに由来します。 諸経の
2023/01/26 05:10
最澄
奈良時代の仏教は、 国家や政治との結びつきが強いものでした。 鎮護国家――国家を鎮(しず)め護(まも)るのが 大きな役目だったのです。 その仏教に新しい動きが起こります。 中心になったのが 最澄(さい
2023/01/25 07:34
家持最後の歌
天平宝字三年(七五九)一月一日、 因幡国の庁での大伴家持の年賀の歌は 「新しき年の始めの初春の 今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと) 」です。 新年のはじめの今日、ふりつもる雪のように いよいよよい
2023/01/24 08:38
平安の仏教
仏教社会は英雄排出の時でした。 中でも最も力を与えたのは最澄・空海の二人です。 最澄は近江滋賀郡の三津百枝(みずのももえ)の子で、 十二歳で大安寺に入り、 行表(ぎようひよう)の弟子となり、 学識深遠
2023/01/24 05:10
柿本人麻呂
書き言葉としての日本語の成立の第一歩は 人麻呂が進めました。 この年(680年)には宮廷の大全部が 天武天皇の突然の病気に大騒ぎしています。 天武帝ばかりか持続皇后も病気にかかり、 そのために天武帝
2023/01/20 05:00
歌の前に平等
ユダヤ=キリスト教圏においては 「万人(ばんにん)は神の前に平等である」 という考え方が支配的です。 教会で高い地位を占めようと、 神の目から見れば法皇(ほうおう)も 奴隷(どれい)も同じなのです。 ま
2023/01/19 05:10
『万葉集』成立
山上憶良(やまのうえのおくら)は、 『万葉集』に収められた 「好去好来(こうきよこーうらい)の歌」で、 日本という国を 「皇神(すめろぎ)の厳(いつく)しき国」であり、 「言霊(ことだま)の(さき)幸はふ国」であ
2023/01/18 05:00
個の確立
『万葉集』にある 闊達(かったつ)に、自由に、思いのままに 自己を表現している姿は、 まさに個人主義です。 闊達に自分を和歌で表現できるというのは、 個が確立しているからにほかなりません。 個の確立
2023/01/17 05:10
和歌の多様性
ドナルド・キーンが『万葉集』に注目するのは、 詩型の多様さに加えて、 語嚢の豊かさ、題材の豊富さです。 世界的に見て、 語嚢の豊かさは最高だといっています。 そして、天皇の国見の歌から恋の歌、生活
2023/01/16 07:34
七五調は日本固有
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)や 山部赤人(やまべのあかひと)らは 漢詩や漢文を学びながら 典礼の席で披露する歌を作り上げた。 みるみるうちに作歌スキルは上達し、 日本語による文学作品の水準に達
2023/01/13 05:00
太常寺
和歌を文字通りに解釈すると、 和(日本の)歌です。 和歌の起源は古墳時代に遡ります。 まず、役人が公式的な儀式の場において 音楽に合わせて歌を詠み上げたのが 始まりとされています。 でも、私たち
2023/01/12 05:10
和歌の歴史
詩集としての 『万葉集』『古今和歌集』だけに着目すると、 「和歌は『万葉集』の時代に生まれた嗜み」 というようなことを考えがちです。 しかし、 それ以前の時代にも和歌の歴史がありました。 ここでカ
2023/01/11 05:00
万葉集
十一世紀にできた『栄華物語』によると、 『万葉集』は天平勝宝五(七五三)年、 孝謙天皇が左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)に 編集を命じられたことになっています。 しかしその後の研究で、 量的に全体の十
2023/01/10 05:10
アビケンナ
イスラームの多くの学者のなかで、 もっともきわだっていたアピケンナ (別名、イブン=シーナー)は、 九八〇年にブハラに生まれています。 すべてのことに精通し、 古代ギリシアでいえばアリストテレスに相
2022/12/28 05:00
フナイン
医師フナイン・イブン・イスハークは プラトンやアリストテレスの他、 デイオスコリデス、ガレノス、 ヒポクラテスの医学書も翻訳しました。 エウクレイデスやプトレマイオスなどの数学書も、 バグダッドでア
2022/12/27 05:10
アラブ科学の黄金時代
ウマイア朝の次の アッパース朝(七五〇~二一五今年)時代に、 アラブの科学は黄金時代を迎えました。 アッパース朝イスラム帝国の首都バグダッドは、 カリフ・アル=マンスール (在位七五四~七七五年)に
2022/12/26 05:00
イスラム文化の発展
アラビアを中心に、ユーラシアの四半部に 最初のイスラム(回教:かいきよう)の大国である サラセン帝国があらわれました。 世界史の視点からみると、 イスラムの国家が登場たことは、 大きな意義をもってい
2022/12/23 05:00
大仏の開眼方法
大仏の目は長さ約一・二メートルあります。 菩提僧正の手によって筆が運ばれ、 そこに瞳が入れられました。 この時に用いられた筆は、 現在も正倉院に残っています。 この筆に、 五色の績(長さ約二一・
2022/12/22 05:10
大仏開眼供養
天平勝宝四年(七五二)四月九日、 大仏開眼会が行われました。 大仏建立の詔が出されてから すでに九年の歳月が経っており、 元正天皇も、大僧正行基(ぎようき)も すでに故人となっていました。 大仏の鍍
2022/12/21 05:00
律令体制の落し子
墾田永年私財法によって、 資財と労働力のある王臣家や大寺院は 競って大土地所有に乗り出し、 いわゆる初期荘園を成立させることになりました。 特にこの時期は大寺院には 政府より墾田が施入され、また、
2022/12/20 05:10
墾田永年私財法
七四三年の墾田永年私財法により、 それまでの土地国有制の原則は 大きく変わりました。 三世一身の法は田畑を自力で開拓した場合、 三世代にわたって私有が許される 期限付きの私有令であったため、 期限が
2022/12/19 05:00
記述上の特色
『古事記』が帝紀(帝皇日継)と本辞(先代旧事)を 素材に正説を定めて記述したのに比して、 『日本書紀』は、 本文の外に「一書日(イワク)」 「或本云(イワク)」と異説を採って並記するという 変わった編纂方
2022/12/16 07:42
日本書紀の編纂
舎人(とねり)親王が 勅によって撰修していた『日本書紀』が、 七二〇年五月に奏上されました。 紀三〇巻のほかに系図一巻があり、 序文.上表文の類いもあったのですが、 系図以下は散逸しました。 並行し
2022/12/15 05:10
日本人が求める理想
簡単に言えば、シラスは日本の国体、 ウシハクは帝国主義時代の西欧の国々の国体です。 ウシハクは、力を持った権力者が 国民を支配するという考え方で、 現在も世界中で武力と経済力による 権力争いがありま
2022/12/14 05:00
日本人の歴史観
『日本書紀』が漢文で書かれたのは、 支那などの外国に見せてもわかるような、 また恥ずかしくないものをつくろう という意図がありました。 しかし支那の官選の歴史書と違うのは、 第一巻で神代(かみよ)を扱
2022/12/13 07:48
日本書記
『日本書紀』も『古事記』と同様に 『帝紀』と『旧辞』が原典になっていますが、 正史だけに巻数も多く、 30巻と付属の系図1巻で構成されています。 坂本太郎は、天武天皇10年(681年)に 天皇が川島皇子以下
2022/12/12 05:00
統治理念
我が国では国を治める2つの方法について 『古事記』上巻「出雲の国譲り」の段で、 天照大神(あまてらすおおみかみ)が 建御雷(たけみかつち)神をして 大国主(おおくにぬし)神に問わしめた言葉に 「汝のうしはけ
2022/12/08 05:10
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